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【大相撲界の至宝】元横綱千代の富士、その輝かしい功績とは

2016 11/8 19:20
相撲
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Photo by Yuka Tokano/Shutterstock.com

時代劇に出てきそうな端正な顔立ち、その鋭い眼差しと攻撃力からついたニックネーム「ウルフ」のファンの方へ報告する。千代の富士は、どのようにして角界に入門し、壁に当たり、それを克服して横綱になったのかを明らかにしたいと思う。多くの大記録を打ち立てた大横綱の全貌をお伝えする。

生い立ち

彼は、北海道松前郡福島町出身で、漁師の息子のため、幼い頃から家業を手伝い、足腰が丈夫になった。
中学生の頃には、運動神経がよく、特に陸上競技の各種目で頭角を現わす。後年の前褌をとり、相手の体を浮き上がらせ、そのまま電車道を走るという取り口を支えたのは、この時の練習が基礎になっているのかもしれない
。この取り口は、相撲にスピードの大切さを加えた革命的なものだった。しかし、体が小さいこともあり、はじめは本人には力士になる気はなかった。

十両昇進まで

初土俵は、1970年の九月場所で、1971年の一月場所で「千代の富士」を名乗った。
この時は、まだ中学生で、このしこ名は横綱「千代の山」と横綱「北の富士」の双方からもらった名前だ。これを考えると、九重部屋でいかに将来を期待されていたのかがわかる。
1974年十一月に19才で十両昇進場所だ。この頃、気性の激しさや鋭い眼差し、その攻撃力からついたニックネーム「ウルフ」が知られるようになる。これを聞いた春日野理事長が「動物の名前のついた力士は強くなる」と言って、喜んだ。

新入幕と肩の脱臼

1975年の九月場所で新入幕を果たしたが、すぐに幕下まで陥落した。
その理由は、力任せの強引な投げ技を得意としていたため、左肩への負担がかかりすぎたためだ。また、千代の富士の場合は、先天的に脱臼しやすい左肩の骨の構造を持っていた。医師から脱臼を防ぐには、筋トレを行い肩の周辺の筋肉を鍛え上げ、肩の周辺を筋肉で固め上げることを指示された。
千代の富士は、畳が擦り切れるまで凄まじい筋トレを行い、筋肉の鎧をまとうようになった。取り口も投げ中心から、前廻しをとって寄り切る方法に変わる。

再入幕から横綱まで

こうして、1977年七月場所で幕内に復帰。1980年三月場所からは幕内上位に定着、十一月場所で新関脇。1981年一月場所で幕内初優勝と大関昇進を手に入れた。三月、五月場所と千秋楽まで優勝争いに残り、七月場所で2度目の優勝を果たし、横綱昇進を決定的に。九月場所は怪我で休場、十一月場所で横綱になって初めての優勝を果たした。
千代の富士は、1981年に関脇、大関、横綱でそれぞれ優勝するという史上初の記録を持っている。いかに早く横綱へ駆け上がったかを示す偉大な記録だ。

偉大な記録の数々

千代の富士の記録の中で燦然と輝くのは、まず53連勝。現在、この記録を超えるのは、双葉山と白鵬だけだ。千代の富士の体の大きさを考えると、本当に驚異的な記録と言える。また、歴代3位の通算31回の幕内優勝。
そのほか、通算勝利数1045勝、幕内勝利数807勝も、魁皇に抜かれるまで史上1位の記録。中日勝ち越しの通算記録25回も、白鵬に抜かれるまで史上1位の記録だった。
千代の富士は、自分の型を見つけるのに時間がかかったため、横綱に昇進するのに少し時間がかかってしまった。その点は、本人も少し無念だろう。

まとめ

千代の富士は、実力と人気の両方を兼ね備えた稀有な横綱だった。その気持ち良い勝っぷりは、多くのファンを魅了した。 肩の脱臼の克服がなければ、偉大な横綱は存在しなかったと思う。 誰でも弱点は辛いものだが、それを克服できた時に新たなる道が開ける、そのことを身をもって示した先人でもあった。