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元横綱・貴乃花が残した最年少記録と大相撲人気への功績

2016 10/12 03:34
貴乃花Ⓒゲッティイメージズ
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Ⓒゲッティイメージズ

若貴フィーバーで大相撲が最高に盛り上がった時代がある。当時を思い出す方や、もっと知りたい方は多いのではないだろうか。 ここでは若貴の一人、元横綱貴乃花について紹介する。

わんぱく横綱にもなった小学生時代

第65代横綱貴乃花光司は、1972年8月12日、元大関貴ノ花の次男として東京都杉並区で生まれる。伯父は元横綱初代若乃花で、相撲名門一家のDNAを受け継いで生まれてきた。 小学生の頃から相撲が大好きで、小学校時代にわんぱく横綱にもなっている。小学校を卒業すると、兄(元横綱3代目若乃花)の後を追って明大中野中学に進み、相撲部に入る。
そして中学校を卒業すると、父親の藤島部屋に入門し、父親の果たせなかった横綱に向けての一歩を踏み出した。この時、兄も一緒に入門し、お互いにライバルとして切磋琢磨することになる。

好敵手と巡り合った初土俵

入門した年の1988年三月場所に初土俵を踏む。このときの四股名は本名に父親の貴ノ花から一字をもらった貴花田だった。 三月場所は就職場所とも呼ばれ、例年初土俵力士の多い場所だ。この年の三月場所は、人数もそうだったが、有望な新弟子の多い場所だった。
後に花の六三組(ロクサングミ)と呼ばれる面々で、兄の横綱若乃花をはじめ、横綱曙、大関魁皇と、後に相撲界を支える大物が同じ場所で初土俵を踏んだ。特に、横綱曙は、お互いをライバルと認め合い、名勝負を数多く残した相手だった。

新記録づくめの出世街道

中学を出てすぐに初土俵を踏んだ貴花田は、幕下までの成績はそれほどでもなかった。実際、兄の若花田よりも2場所遅れで幕下にたどり着く。
しかしここから快進撃が始まるのだ。 幕下に昇進した1989年五月場所での最年少幕下優勝(それまでの記録は横綱柏戸)を皮切りに、1989年十一月場所で十両昇進(横綱北の湖)、1990年五月場所で幕内昇進(横綱北の湖)と次々に記録を塗り替える。
そして最年少幕内初優勝を果たしたのが1992年一月場所。東前頭2枚目で14勝1敗の成績だった。 ちなみにこの1敗は、当時小結に昇進していたライバル曙に押し倒されたものだった。その後も、年間最多勝、大関昇進、全勝優勝と最年少記録を更新したが、横綱北の湖の持つ最年少横綱昇進記録は抜くことができなかった。

横綱曙との名勝負

横綱貴乃花の主だった力士との対戦成績を見てみると、同じ時期に横綱だった武蔵丸には29勝19敗、同期初土俵の大関魁皇には27勝12敗と大きく勝ち越している。
ところが、横綱曙とは本割で21勝21敗、優勝決定戦で4勝4敗とまったく互角の星が残っている。それだけ実力が伯仲していたということで、横綱になってからも優勝をかけた千秋楽結びの一番での直接対決が6回もあった。全勝同士での対戦こそないが、1995年三月場所と五月場所で、連続して1敗同士の千秋楽結びの一番での対決となっている。
結果は三月場所では曙、五月場所では貴乃花が勝ち、こちらも互角の結果となっている。

最後の優勝と怪我による引退

2001年一月場所の後、横綱曙が引退する。翌々五月場所は貴乃花にとって運命の場所になった。全勝で迎えた14日目、大関武双山に敗れ右足を負傷してしまう。無理をして出場した千秋楽は、星一つの差だった横綱武蔵丸に敗れて優勝決定戦に持ち込まれた。誰もが無理だと思った決定戦では、渾身の上手投げで勝利し、総理大臣杯授与の際、小泉首相からよく頑張ったと声を掛けられた。
しかし、この時の怪我が完治せず、結局2003年一月場所で引退した。 引退後は一代年寄貴乃花を認められ、父親の二子山部屋を継承すると共に、相撲協会幹部として活躍している。

まとめ

人気大関貴ノ花の次男として生まれた貴乃花は、兄と共に大相撲の道へと進む。 そして、次々と最年少記録を塗り替えながら出世を続け、空前の大相撲ブームを作り上げた。 若貴フィーバーと言われた盛り上がりは、多くの人を大相撲に向けさせた。 引退後は日本相撲協会理事として、貴乃花部屋の親方として、大相撲界を支えている。