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平成11年 消滅する横浜フリューゲルスが天皇杯制覇【平成スポーツハイライト】

2018 12/21 11:00SPAIA編集部
サッカー,観客,イメージ画像,ⒸShutterstock.com
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経営難でマリノスに吸収合併

Jリーグ創設時からの加盟クラブ(オリジナル10)のひとつ、横浜フリューゲルスが横浜マリノスに吸収合併されるというショッキングなニュースが流れたのは平成10年(1998年)10月29日だった。出資企業の佐藤工業が経営悪化のため撤退、もう一つの出資企業、全日空も赤字のため単独では支え切れず、同じ横浜に本拠地を置くマリノスと合併、フリューゲルスは事実上、消滅するというのだ。

日本代表がワールドカップ・フランス大会に初出場した余韻も冷めやらぬ中、4年後の日韓共催ワールドカップに向けてトルシエジャパンが始動したタイミング。「夢」の裏で密かに進行していた「現実」は、クラブ経営の難しさを世間に知らしめることになった。

フリューゲルスは決して弱小チームではなかった。加茂周監督の提唱する「ゾーンプレス」で平成5年の天皇杯優勝、平成8年には前園真聖、三浦淳宏、山口素弘らの活躍で最後まで優勝を争う(最終順位は3位)など実績をあげていた。

ただ、マリノスに比べて人気の点では見劣りしていた。ホームだった収容人員15,000人の三ツ沢球技場に代わり、7万人収容の横浜国際総合競技場(現日産スタジアム)が平成10年3月に開場しても起爆剤にはならなかった。

「最後の大会」で意地の快進撃

消滅が発覚してからサポーターは署名運動を展開。Jリーグ事務局には抗議の電話が殺到した。それでも企業の論理が覆ることはなく、12月2日にフリューゲルスとマリノスの両クラブ間で調印式が行われ、合併が正式に決まった。

そんな悲劇的な状況で迎えた天皇杯。フリューゲルスイレブンは最後の大会で「戦う理由」があった。

準々決勝でジュビロ磐田に2-1で勝ち、準決勝では退場で一人少なくなるというハンデをものともせず鹿島アントラーズに1-0で勝利を収めた。

迎えた平成11年元日、勝っても負けても最後の舞台。決勝の相手は清水エスパルスだった。

前半13分、エスパルスに先制を許すが、前半終了間際に久保山由清の同点ゴールで追いつくと、後半28分に吉田孝行が勝ち越しゴール。天高く鳴り響いた試合終了のホイッスルは、優勝と同時にチームの消滅も告げた。

選手は散り散りに

同年2月1日、マリノスはフリューゲルスの「F」を加えて横浜F・マリノスに改称した。

三浦や吉田、永井秀樹、波戸康広らがF・マリノスに加入した一方、山口と楢崎正剛は名古屋グランパスへ移籍、前田浩二はジュビロ磐田、薩川了洋は柏レイソルへ移るなど選手は離散。

また、存続に尽力していたサポーターの活動は横浜FCの設立につながった。チームの愛称であった「フリエ」は運営会社の名前として今も引き継がれている。