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まさに「南野帝王」。日本代表のエースに名乗りをあげた南野拓実に迫る

2018 10/19 11:00中山亮
サッカー,ⒸShutterstock.com
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育成年代から日本のエースだった南野

日本代表の新エースとして名乗りを上げた南野だが、育成年代やプロ入り直後の南野を知る人にとってはむしろ遅すぎると感じている人も多いだろう。

幼稚園時代からの友達で今では日本代表でも共に戦う室屋成と同じチームでサッカーを始めた南野は、中学校入学と同時にセレッソ大阪の下部組織に加入。中学3年生の時、日本クラブユースサッカー選手権(U-15)大会で得点王となり、高校入学と同時にU-18に昇格するとプリンスリーグ関西1部での開幕戦でいきなりハットトリックを達成した。

世代別日本代表でもエースとしてチームをけん引、U-17ワールドカップへと導いた。チームには幼馴染の室屋だけでなく、中島翔哉や植田直通、中村航輔、鈴木武蔵など数々のタレントがいたが、南野は最も注目を集める存在だった。

C大阪でもトップチーム昇格と同時に主力選手に

Jリーグデビューは翌年のトップチーム昇格が発表された直後の高校3年生の時。2種登録選手として2012年のJ1第32節大宮戦、翌第33節広島戦で途中出場を果たすと、第34節の川崎F戦ではトップ下で初先発。最終節に引き続き、先発となった天皇杯4回戦清水戦では初ゴールを決め、シーズン最終盤で一気にポジションを掴む。

そしてプロとしてのルーキーイヤーとなる2013年開幕戦でも先発出場。C大阪では多くの有望な若手が育っていったが、高卒ルーキーとして開幕戦から先発出場を果たしたのは南野ただ1人である。

そして2013年は最終的に29試合出場5得点という記録を残しJリーグベストヤングプレーヤー賞を受賞。現行のベストヤングプレーヤー賞として21歳以下の選手が対象となる形式に変更されて以降、この賞をルーキーイヤーに受賞したのは2013年の南野と2014年のカイオ(当時鹿島)の2人だけ。

また、翌2014年には、ブラジルワールドカップ直前の4月に行われた日本代表候補トレーニングキャンプにも招集。最終的に23人枠には入れずリザーブメンバーとなったが、当時から日本代表にいつ入ってもおかしくない。そんな選手だった。

その頃から考えると現在の活躍も「ようやく」であり「むしろ遅すぎる」ぐらいである。

技術と運動量に加えゴールへの執念が最大の武器

南野の武器には、香川や清武、乾、柿谷などC大阪出身のアタッカーが持つ鋭いターンやボールコントロールがあるが、それだけではない。現C大阪U-23監督を務める大熊裕司氏にユース時代から鍛えられた攻守の切り替えの速さや守備局面での強さも兼ね備えている。

現在所属するレッドブル・ザルツブルクでも活躍出来ているのは、攻守共に高いインテンシティを維持できるからだ。

そして、南野の最大のストロングポイントはゴールに対する飽くなき執念だろう。

ピッチ外では人懐っこい笑顔を見せ、本を読むことが好きだという優男のようなイメージがあるが、ピッチに入ると一変。サッカーに対しては全く妥協をせず、ゴールへの渇望は人並み外れている。

ピッチ内では全く物怖じすること無く、先輩に対しても全く遠慮すること無く正面から要求する。

最も驚いたのはまだトップチームでデビューする前の紅白戦の時のことだ。

それまで同年代とサッカーをしていた選手がいきなりトップチームの練習に加わると、程度の差こそあれ最初はどうしても萎縮してしまうものだが、南野は全く臆することなく周囲に要求。あたかも何年もここにいたかのようにプレーし、瞬く間に当時のサブ組のエースとして君臨した。

これを見た当時のC大阪監督レヴィー・クルピ氏が南野をレギュラー組に加えたのも当然だろう。その後のトップチームデビューへとつながったのも自然な流れだった。

これまで香川、乾、柿谷、山口、清武、扇原など若手選手が多く育ったC大阪だが、最初からこれだけ堂々とプレーできた選手は南野以外に見たことが無い。

時に、そのメンタルの強さが裏目に出てしまうこともあったが、ヨーロッパでの経験も積んだことで成長。次の日本A代表は「南野帝王の時代」になるかもしれない。