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「清水の誇り」杉山浩太選手が背負った清水エスパルスの背番号6番

2018 1/24 11:44Aki
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小学5年生から23年間 清水エスパルス

2017年シーズンをもってスパイクを脱ぐ決断を下したJリーガーの中に、「清水の誇り」と呼ばれた杉山浩太がいる。引退会見で、


「小さい頃から僕はたくさんの人に、エスパルスに守られてきましたし、その中で僕しかエスパルスを守れない時期は必ずあったと自信を持って言えるので、エスパルスに恩返しできたなという気持ちもあります。」

出典:清水エスパルス公式HP

と語った。2年間(2008年~2009年)柏レイソルに期限付き移籍していた時期以外は、小学5年生の時にエスパルスサッカースクールに加入して以降、ジュニアユース、ユース、トップチームと常に清水エスパルスの選手だった杉山浩太。
プロ選手としては15年間。下部組織を含めると23年間の現役生活を終えることとなった。

下部組織では数々のタイトルを獲得しトップチームへ

身体も小さく細身ながらも、視野の広さを活かした長短のパスでゲームを作るプレーメーカーとして早くから頭角を表していた。中心選手としてジュニアユースでは日本クラブユース選手権(1997年)、ナイキプレミアカップ、高円宮杯全日本ユース(1998年)とタイトルを獲得。
ユースに進んでからもクラブ史上初となる日本クラブユース選手権(2002年)にも優勝し、さらに年代別日本代表にもコンスタントに選ばれるようになっていた。

トップチームに昇格したのは2003年。プロ1年目の静岡ダービーでデビューを果たす。
ジュニアユース時代からコーチとして杉山を見てきた加藤慎一郎氏によると、当時から「ボールを奪うのはうまかった」こともあり、トップチームでは広い視野とパスセンスを活かすために、主に守備的ミッドフィールダーとしてプレーすることになっていった。

大榎克己氏の6番を引き継ぐ

地元静岡市で生まれ、清水エスパルスの下部組織で育った杉山はプロ3年目の2005年、背番号をそれまでの31番から6番に変更する。清水エスパルスの6番といえば、クラブ設立時のスター「清水三羽ガラス」の1人。
大榎克己氏が背負った番号。大榎氏引退後はブラジル人選手らがこの番号をつけたが定着しなかった。
しかし2005年、改めてその大切な番号が下部組織出身の杉山に託されたのだ。ちなみにこの2005年は同じく「清水三羽ガラス」の1人であった長谷川健太氏が清水エスパルスに監督として戻ってきたシーズンでもある。

長谷川監督の下で6番を託された杉山だったが、順調に出場を重ねられたわけではなかった。出場すれば素晴らしいプレーを見せていた杉山だったが、怪我も多くまた幼少期から患っていた重度の気管支喘息にも苦しんでいたからだ。
特に秋頃は少しの気温差でも苦しくなるためほとんど試合に出場することができず、2006年の秋にはチームから離れ沖縄で静養することもあった。 2007年には北京オリンピックアジア二次予選を戦うU-22日本代表にも選出されていたが、チームでの公式戦出場は半分以下の16試合に留まり、シーズン終了後に柏レイソルへの期限付き移籍が発表された。

大きな転機となった柏レイソルでの2年間

杉山のキャリアで、初めて清水エスパルス以外のチームでプレーすることになった柏レイソルの2年間は大きな転機となった。その1つは長年苦しんだぜんそくに真正面から向き合い、本格治療を始めたこと。
同じ病気で苦しみながらもオリンピック金メダリストとなったスピードスケートの清水宏保氏から助言も受け、さらに食事療法にも取り組んだ。また当時の柏レイソル監督石崎信弘氏も杉山をサポート。杉山の能力を高く評価していた故である。

中3日で飛行機移動を伴うアウェイ遠征ではベンチ外となることもあったが、日程に余裕がある場合は杉山の体調を考慮し、アウェイ遠征では異例の2日前に現地入りするなどの対策をとった。
こういった努力により症状も徐々に改善。期限付き移籍2年目となった2009年のプレシーズンマッチでは2007年6月以来となる617日ぶりとなる90分間フル出場も果たし、ここまでのキャリア最多となる公式戦25試合に出場した。
もう1つ特筆すべきは、守備的ミッドフィールダーとしてコンビを組んだ柏レイソルの大谷秀和の存在だった。大谷と杉山は同学年。柏レイソルのジュニアユースからユース、トップチームへと進んだ大谷と、清水エスパルスジュニアユースからユース、トップチームへと進んだ杉山は


「中学生のころから一緒に試合をしていた」(大谷)間柄。

出典:ブロゴラ

プロ入り後もプライベートでも交流のあった2人は、ピッチでコンビを組むと抜群のコンビネーションを発揮。ついに杉山がその実力に見合ったプレーをピッチで見せ始めた。

クラブ初の生え抜きキャプテンに

2010年、清水エスパルスに復帰した杉山は、開幕前に負った怪我からの復帰が当初の予定よりも大幅に遅れ、シーズンの大半をリハビリに費やすこととなる悔しいシーズンとなった。しかし、翌年から徐々にコンディションを取り戻す。
そして2013年にはクラブ史上初の下部組織出身の生え抜き選手としてキャプテンに任命される。当時の監督であったアフシン・ゴトビ氏は杉山に絶対の信頼を置いており、この2013年はリーグ戦34試合中30試合に出場。
また守備的ミッドフィールダーだけでなくセンターバックとしても起用した。

センターバックといえば最終ラインの要。屈強なストライカーと身体をぶつけ合いながら競り合うポジションである。そのポジションに身長177cm68kgの選手がプレーするのは異例中の異例と言えるだろう。
2015年以降は大きく出場機会を減らすこととなり、2017シーズンでの引退となったが、「清水の誇り」と呼ばれた杉山が6番を背負って見せたプレーメークはもちろん、最終ラインで戦った姿も清水エスパルスサポーターにとって忘れられないものだろう。