「スポーツ × AI × データ解析でスポーツの観方を変える」

柏レイソルの象徴となった背番号9番

2017 11/10 12:24Aki
サッカーボール
このエントリーをはてなブックマークに追加

優秀な若手が育つクラブ

下部組織出身選手が多く在籍する若いチームながら、2017年のJリーグで上位争いを繰り広げていた柏レイソル。
2011年は、Jリーグ史上初めてJ1復帰初年度にして優勝という快挙を達成し、クラブワールドカップでは当時ネイマール選手が在籍したサントスとも戦った。
2017年のチームは下部組織出身者が半数を越えており、またロシアワールドカップを目指す日本代表にも、柏レイソル下部組織出身の酒井宏樹選手(現オリンピック・マルセイユ/フランス)や中村航輔選手が定着するなど、近年は優秀な選手を輩出するクラブとしても知られている。
しかし、柏レイソルのこれまでの歴史は、常に順調というわけではなかった。

柏レイソルの歴史とクラブにとって特別な背番号「9番」と共に振り返ってみよう。

注目を集めるクラブとなった柏レイソル

柏レイソルが最初に大きな注目を集めたのは、まだJリーグ加入前の1993年だった。 柏レイソルの前進は、日本サッカーリーグ時代から名門だった日立製作所サッカー部だ。しかしプロ化の波に乗り遅れ、1991年に発表されたJリーグの開幕時10クラブには参加することができなかった。
1992年、将来のJリーグ参加を目指すJリーグ準会員となり、翌年1993年には前年までナポリでプレーしていた現役ブラジル代表ストライカーのカレカを獲得した。これは、アマチュアリーグに世界的ストライカーが加入したと大きな話題になった。

1995年にJリーグに昇格してからは、攻撃的なサッカーで躍進し、1998年に日立OBである西野朗氏を監督に迎えた。さらに、ヨハン・クライフ氏率いるFCバルセロナ”ドリームチーム”の主力メンバーだったブルガリア代表のフリスト・ストイチコフ氏を獲得するなどさらに大きな注目をあつめた。
西野氏率いる柏レイソルはリーグタイトルにこそ届かなかったが、1999年にはヤマザキナビスコカップ(現ルヴァンカップ)に優勝し、柏レイソルとしての初タイトルを獲得している。
リーグ戦でも常に上位を争う強豪クラブとなっていった。
この当時、高校サッカー選手権で通産最多得点を記録し、2度の優勝経験を持つ市立船橋高校の北嶋秀朗氏がブレイクしていた。
プロ入り1~2年目はプロの壁に苦しんでいたが、3年目にブレイクを果たすこととなる。

突然訪れたチームの崩壊

2001年シーズン途中に西野氏が監督を退任し、2003年に北嶋氏も環境を変えるために清水エスパルスに移籍することになると、クラブは若手へと世代交代を進める。
ここからクラブは上位争いから遠ざかり、下位に沈むことが多くなる。しかし、それでもドイツのレバークーゼンでプレーしていた元ブラジル代表のフランサ氏を獲得するなど、注目をあつめていた。
フランサ氏は、レバークーゼンで浦和レッズへと移籍したロブソン・ポンテ氏や、後にマンチェスター・ユナイテッドでもプレーしたディミタール・ベルバトフ氏と共に「デンジャラス・トライアングル」と呼ばれていた中の1人だ。
2003-04シーズンのチャンピオンズリーグで、ジネディーヌ・ジダン氏やロベルト・カルロス氏、ラウール氏らを擁するレアル・マドリードに完勝したことで、世界的な注目を集めていた。

しかし2005年の入れ替え戦の結果、クラブ史上初のJ2降格が決定した。 このシーズンはフランサ氏をはじめ、かなり充実したメンバーが揃っていたにもかかわらず、チームが崩壊するような状態に陥ってしまった。
それを象徴するように、この2005年シーズン終了後、明神智和選手、玉田圭司選手、矢野貴章選手、永田充選手など多くの主力選手が退団。クラブはかなり厳しい状況に追い込まれていた。

電撃復帰し、9番を特別な番号とした北嶋秀朗氏

J2で戦う事になった2006年、かつてのエースだった北嶋氏が電撃的に柏レイソルに復帰を果たすこととなる。
2005年は怪我でほとんど試合に出場していなかったものの、既にJ1清水エスパルスでは中心選手としてプレーしていたにも関わらず、J2に降格した古巣に復帰をしたのである。
このシーズンは1年でJ1復帰を果たすこととなるが、その中心には以前と同じ背番号9番をつけた北嶋氏がいた。実際のプレーはもちろん、主力選手が多く抜け若手中心となっていた柏レイソルの精神的支柱としても効果を発揮したのだ。
その影響をうけた1人が、現在の柏レイソルで不動のキャプテンとしてチームを牽引している大谷秀和選手だ。大谷選手は2003年に下部組織からトップチームに昇格し、2006年はちょうど4年目のシーズンだったが、この年から先輩である明神選手の背番号7番を引き継いでおり、完全にチームのレギュラーとして定着した。

また、サポーターによる熱い応援で特別な雰囲気を作り出すスタジアムとして知られる、日立柏サッカー場の応援スタイルが出来上がったのもこのシーズンだ。
そしてその中心となったのも背番号9番の北嶋氏で、サポーターと対話することで現在のスタイルが完成したのである。 柏レイソルにとって背番号9番が特別な番号となったのはこの2006年だ。
清水エスパルスに移籍する前にも北嶋は9番を背負っていたし、さらに数々のエースストライカーも9番を背負ってきたが、このシーズンの北嶋氏の多岐に渡る活躍により、特別な番号へと進化したのだ。

受け継がれた9番

柏レイソルは、その後2009年にも主力選手が多く怪我で離脱したことをきっかけにJ2に降格してしまうこととなるのだが、北嶋氏が在籍していた時期はチームが崩壊してしまう様なことはなかった。
その結果、2010年にはJ1復帰し、2011年には即優勝という快挙に繋がったのだろう。

背番号9番は、その後下部組織出身の工藤壮人選手へと引き継がれ、ポルトガルのスポルティング・リスボンから復帰した田中順也選手が背負った。
工藤選手は北嶋氏が退団した後、チームの責任を背負う覚悟を持って9番を自ら志願。田中順也選手も、自分にプレッシャーをかけたいとしてこの9番を志願したという。
クラブや選手、そしてサポーターにとっても、背番号9番はもはや特別な番号なのだ。
現在はブラジル人ストライカーのクリスティアーノ選手が9番を背負っている。下部組織出身のチームの中心となるストライカーが誕生した時、その選手の背中に9番が与えられる事になるのだろう。