「スポーツ × AI × データ解析でスポーツの観方を変える」

王国の誇り!清水エスパルスとともに歩むサポーターの歴史

2017 10/13 11:07mikky
サポーター
このエントリーをはてなブックマークに追加

Photo by janews/shutterstock.com

清水エスパルスはJリーグ開幕時に所属した10クラブ(オリジナル10)の1つである。 経営母体を持たないクラブとして発足した経緯や、国内一のサッカーどころとうたわれた静岡のチームを支えるサポーターは、どのような歴史を歩んできたのだろうか。

清水エスパルスの礎を築いた小花不二夫氏

清水エスパルスのルーツは大正時代までさかのぼる。静岡県に初めてサッカーをもたらした一人として知られる小花不二夫氏は、静岡師範学校の蹴球部出身。県内の中学校にサッカー部を作り、著名な指導者を招くなど、清水にサッカーの裾野を開いた。

今でこそサッカーは全国に強豪校が分布している状態だが、ひと昔前までは清水市は全国一のサッカーどころと言われていた(現静岡市清水区)。ただ、清水は最初からサッカーが強かった訳ではなく、「日本一の少年団チームを作る」という小花氏の尽力が結実したのだ。

経営母体を持たない市民球団として清水エスパルス発足

日本一の少年団サッカーチームを作れば、中学、高校にも強豪チームができあがるという小花氏の構想に基づき、小学生リーグから選抜したチームは「オール清水」として全国優勝。このオール清水こそ、Jリーグ加盟前の清水エスパルスの前身「清水FC」なのだ。

市民球団としてスタートしたエスパルスは、地元メディアなどが中心となって株式会社を設立。市民も資本金の1割を出資するなど、街全体が「サポーター」としてクラブを後押しする環境ができあがった。

1997年に訪れた経営危機にサポーターが署名活動

地元メディアと市民による出資金で運営していた清水エスパルスだが、1997年に運営会社が経営破綻するという最初の危機を迎えた。クラブの消滅も危ぶまれる中で、サポーターはクラブの存続を訴えて署名活動を実施。数は清水市民を上回る約31万人分にのぼり、存続を望むムードは地元の老舗海運業「鈴代」に伝わり、経営権が譲渡されることになった。

「全国一のサッカーどころ」の危機は、それを作り上げてきた市民、サポーターの力によって回避することができた。

サポーターの誇りが激突!絶対に負けられない静岡ダービー

清水エスパルスには「絶対に負けられない戦い」がある。それは同じ静岡県下にあるクラブ「ジュビロ磐田」との「静岡ダービー」だ。今でこそJリーグでは1つの都道府県に複数のクラブがあるのは珍しいことではなくなったが、静岡ダービーは同郷同士の戦いの元祖ともいえる試合だ。

清水と磐田は同じ静岡県ではあるが、駿河と遠州という2つ地域の誇りが激しくぶつかり合う場でもあり、静岡VS浜松の代理戦争という一面もサポーターを熱くさせる一因になっている。

屈辱のJ2降格もを1年で乗り越えたサポーターの支え

再始動した清水エスパルスは1999年に初のステージ優勝、2001年に天皇杯優勝などクラブの黄金期を迎えた。しかし、それ以降はタイトルに恵まれず、2015年には前年に続いて迎えたJ2降格の危機に、清水区民がフラッグに応援メッセージを書き込み清水区役所に掲げるなど、残留に向けて奔走したものの、結果的に降格の憂き目に遭った。

しかし、翌2016年のJ2シーズンは後半の快進撃でリーグ2位となりJ1に復帰。最終戦の徳島戦はアウェー開催にもかかわらず、現地に4000人ものサポーターが集まり「王国」のJ1復帰を喜び合った。

まとめ

清水エスパルスのサポーターの間では「団結清水」という合言葉がある。 サポーターひとりひとりが「サッカー王国のクラブ」の誇りを持ち、経営危機やJ2降格時にもクラブに叱咤激励を送りつつ共に戦い続けてきた。 J1に復帰した2017年シーズンも厳しい戦いを強いられているが、団結清水の精神で粘り強く応援を続けることだろう。