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歴代背番号の変化で見る横浜F・マリノスの歩み

2017 10/13 10:05Aki
横浜F・マリノス,日産スタジアム
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Jリーグ名門クラブの1つ、横浜F・マリノス

Jリーグオリジナル10の1つである横浜F・マリノス。前身となる日産自動車サッカー部は比較的新しいクラブではあったが、1981年に後の日本代表監督にもなる加茂周氏を日本初の日本人プロ監督として招聘するという積極的な姿勢で強化を勧めると、1980年代後半には日本サッカーリーグ(JSL)の強豪となり、Jリーグ開幕時には日本サッカー界を代表するチームの1つとなっていた。

横浜マリノス(当時)としてJリーグに参加したチームは、リーグ戦開幕前年の1992年に天皇杯優勝。開幕3年目の1995年にはリーグチャンピオンとなるなど、早くから結果を積み重ねた。
その後もコンスタントに結果を出す事で、鹿島アントラーズと並び降格経験の無い数少ないクラブの1つとして強豪チームとなっていく。

そんな横浜F・マリノスだが、何もせずして強豪という訳ではない。内容の大小はあるが、これまでに何度も路線変更を行ないチーム改革をしているのだ。

アルゼンチン路線を敷いた横浜マリノス

Jリーグ開幕当初、横浜マリノス(当時)はアルゼンチン国籍の選手を多く集めていた。日本サッカーリーグ(JSL)からのライバル、ヴェルディ川崎(当時)がブラジル国籍選手を多く集めていた為なのだが、それが幸いした。
アルゼンチンを代表するストライカーであるラモン・ディアス氏や、アルゼンチンリーグで得点王の経験もありアルゼンチン代表にも選出されたキャリアを持つダビド・ビスコンティ氏など、アルゼンチンのビッグネームを多く獲得することができた。

その後もグスタボ・サパタ氏、ラモン・メディナベージョ氏、など多くのアルゼンチン国籍選手が加入する。監督もJリーグ開幕は清水秀彦氏で迎えたが、1995年はアルゼンチンの名将ホルヘ・ソラリ氏が指揮をとるなど、横浜マリノスはアルゼンチンの影響を受け成長していった。

スペイン路線を進める事に

ホルヘ・ソラリ氏が退任し、その後日産自動車サッカー部のOBでもある早野宏史が監督を務めた後の1997年、横浜マリノスはスペインで指導者としてのキャリアを重ねた後、南米のボリビアやチリで代表監督を務めていたスペイン人監督、ハビエル・アスカルゴルタ氏を招聘する。

アスカルゴルタ氏はボリビア国籍を持ち、アルゼンチンでプレーしていたフリオ・セサル・バルディビエソ氏に10番を与えるなど、アルゼンチン路線から大きく離脱することはないかと思われた。
しかし他に獲得したのは、かつてFCバルセロナでヨハン・クライフ氏率いるドリームチームでプレーしたフリオ・サリナス氏であった。ここから横浜マリノスは、一気にスペイン路線へと変更する。

アスカルゴルタ氏と同じバスク出身という縁もあり、横浜マリノスへの加入を決めたフリオ・サリナス氏がつけたのは背番号7番だった。それまでマリノスでは中盤の右サイドでプレーする選手が7番をつけていたが、ここから7番はスペイン流となるストライカーの番号となった。

アスカルゴルタ監督2年目となる1998年には、同じバルセロナのドリームチームでプレーしたバスク出身選手、ゴイコエチェア氏も獲得する。このスペイン路線ではさらに、チキ・ベギリスタイン氏も獲得しようとしたが、当時新人だった中村選手のプレーを見て衝撃をうけたアスカルゴルタ氏はそれを止める。その結果ベギリスタイン氏は、浦和レッズに加入することとなった。

突如終了したスペイン路線

一気にスペイン路線へと舵をきった横浜マリノスだったが、1998年8月にユ・サンチョル氏の獲得を巡って、アスカルゴルタ氏がフロントと衝突しチームを去る事になる。後任は、バルセロナのセカンドチームでコーチをしていたアントニオ・デラクルス氏が務めた。

スペイン路線が続くかに思われたが、1999年いっぱいでアントニオ・デラクルス氏がチームを去るとスペイン路線は突然終わりを迎え、アルゼンチン人のオズワルド・アルディレス氏が就任する。
ちなみにフリオ・サリナス氏が去った後、7番を引き継いだのは永井秀樹氏。つまり7番ストライカーの番号ではなくなり、右サイドでプレーするアタッカーがつける番号となったのだ。

そのアルディレス氏も退任となると、次に就任したのはブラジル国籍のセバスティアン・ラザロニ氏だった。1990年にブラジル代表を率いた名将が就任すると、ここからそれまではほとんど在籍してこなかったブラジル人選手を多く獲得する様になる。

日本人監督路線に

ラザロニ氏が退任した後は、それまでの外国人監督を多く招聘していた流れから一転、日本人監督が続く事になる。
その傾向として特徴的なのは、岡田武史氏や桑原隆氏など実績を重ねた指導者を時折招聘するも、水沼貴史氏や木村浩吉氏、木村和司氏、樋口靖洋氏など基本はクラブOBであるという事だ。

岡田氏が率いた2003年にはファーストステージ、セカンドステージを連覇、完全優勝を達成し、翌2003年のファーストステージも優勝、さらにチャンピオンシップにも勝利し2連覇を達成したが、その後は中位に終わるシーズンが増える。
特に2010年以降は一桁番号をつける中心選手が数多くチームを去るなど、選手の入れ替えが激しくなっていった。

シティ・フットボール・グループ の一員に

2015年は久々の外国人監督となる、フランス国籍のエリク・モンバエルツ氏が就任するが、これは大きな変化を表すものだった。2014年7月、マンチェスター・シティFCを運営するシティ・フットボール・グループ (CFG) が、クラブの親会社である日産自動車と「グローバルサッカーパートナーシップ」を締結した事で起こった変化だった。
これまで日産自動車の完全子会社だった横浜F・マリノスが、一部保有とはいえマンチェスター・シティのシティ・フットボール・グループ の一員になった事により、OB監督が続いていたクラブの根本が大きく変わったのだ。

この変化により、2016年のシーズンオフから2017年開幕までの間に、レギュラー番号をつけていた選手のうち6人がチームを去ることとなった。チームが一新されたのだ。
この変化は、中村俊輔選手の退団の様にネガティブな印象を与えた部分もあったが、2017年のチームを見る限りポジティブな変化だったと言える。