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セレッソ大阪の背番号2番から見る、ドイツサッカーとの意外なつながり

2017 10/13 10:05Aki
セレッソ大阪
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セレッソ大阪の特別な番号「8番」

セレッソ大阪にまつわる背番号と言えば、最初に出てくるのはやはり8番だろう。森島寛晃氏が背負い、その後香川真司選手、清武弘嗣選手、柿谷曜一朗選手と引き継がれた背番号で、セレッソ大阪のエースナンバーだ。今や下部組織でも、そしてレディースチームにもこの伝統は受け継がれていおり、セレッソ大阪の全てのカテゴリーのチームが8番をエースナンバーとしている。
おそらく現在育成組織に所属している若い選手達は、森島寛晃氏の現役時代を見たことが無い選手たちばかりだろう。しかし森島氏からこの8番を引き継いだ香川選手、清武選手、柿谷選手が森島氏へのリスペクトを表し、そして8番という番号の重みを表現することで、ルーツとなった森島氏を知らない選手達にもその偉大さを伝える事ができている。

しかし、今回はあえてセレッソ大阪の8番以外の背番号を取り上げてみようと思う。
Jリーグに固定番号制度が導入されたのは1997年。2017年で21年目を迎える事となったが、これまでの背番号を見ていると、その時のチーム状態や方向性など様々なものが見えてくる。
セレッソ大阪の21年間でつけられてきた背番号からチームの歴史を振り返ってみよう。

ブラジルの名将レヴィー・クルピ氏の印象が強いチーム

セレッソ大阪といえば、J1で上位争いに絡んだかと思えば突然不調に陥りJ2降格もあるという不思議なチームだが、最も印象的なのはレヴィー・クルピ氏が率いた2007年から2013年のチームでは無いだろうか。(2012年の半年間はセルジオ・ソアレス氏が指揮を取っている)

その後ヨーロッパのサッカーシーンでも大活躍を見せる香川真司選手、乾貴士選手を始め、現川崎フロンターレの家長昭博選手、ガンバ大阪の倉田秋選手、など今では各チームのエースクラスの選手がしのぎを削りあった魅力的なチームで、清武選手、柿谷選手もブレイクしたのはここからだ。
そして下部組織出身の山口蛍選手や杉本健勇選手、南野拓実選手もクルピ氏の元で才能を磨いた選手たちだ。

この事からセレッソ大阪といえばブラジルサッカーの影響が強いと思われるが、実はそうではない。それは、これまでの背番号リストを見ているとわかる。

守備的ミッドフィールダーから受け継がれた2番

2017年のセレッソ大阪で背番号2番を背負うのは松田陸選手で、右サイドバックのレギュラーとして活躍している。2017年のJ1の右サイドバック選手で2番をつけているのは、この松田選手とFC東京の室屋成選手のみだ。2番をサイドバックの選手がつけるというのは実にブラジル的である。

しかし、過去に2番をつけていた選手を見ると、必ずしも右サイドバックではないことがわかる。
FC東京では室屋選手の前に2番をつけていたのは徳永悠平選手だ。徳永選手は様々なポジションをこなす事ができるが、本職は右サイドバックである。ここは一貫していると言えるだろう。

一方でセレッソ大阪における2番の前任者は、現在横浜F・マリノスでプレーする扇原貴宏選手だ。左利きの守備的ミッドフィールダーで右サイドバックとはほど遠い。しかも扇原選手は下部組織時代から2番をつけていた。
この前に2番をつけていたのは羽田憲司氏。羽田氏はセンターバックとしてのイメージが強いが、セレッソ大阪では守備的ミッドフィールダーとしても多くのゲームに出場しており、チームのキャプテンも務めていた人物である。
扇原選手は、かつてのキャプテンで同じポジションの羽田氏から2番を引き継いだ。つまりこのクラブでは2番はそもそも右サイドバックの番号としては扱われていなかった、という事がわかる。

2番の歴史を振り返る

セレッソ大阪の2番の歴史をさらに遡ってみよう。

固定番号制が始まった1997年。最初に2番をつけたのは木澤正徳氏。ジェフユナイテッド市原(当時)から加入し、その後アルビレックス新潟や水戸ホーリーホックでもプレーした木澤氏は右サイドバックだった。 次に2番をつけた小川雅己氏も本職としては右サイドバックだ。
後に所属した水戸ホーリーホックやザスパ草津(当時)ではディフェンスリーダーとなるが、セレッソ大阪に在籍した当時は右サイドバックとしてプレーしていた。

しかし小川氏が退団後の2001年から様子が大きく異る。ここから2番を背負ったのは影山貴志氏、喜多靖氏、カブラル氏、と大きく競り合いに強いストッパータイプの選手。続くマリオ氏は守備的ミッドフィールダーだったが、ブルーノ・クアドロス氏はリベロタイプ。

そしてブルーノ・クアドロス氏から先にあげた羽田氏が2番を引き継ぐこととなっている。
2001年から明確に、2番は右サイドバックの選手ではなくなっていったのだ。

セレッソ大阪の2001年から2005年に起こったことは

ストッパータイプの影山氏が2番を付けるようになった2001年から、ブルーノ・クアドロス氏が2番を付け始めた2005年の期間に何があったのかを見ていく。
この時期といえば、2002年の日韓ワールドカップに、森島氏・西澤明訓氏・尹晶煥氏(現監督)と3人もの選手を出場させながらもJ2降格。しかし2003年にJ1に復帰すると、いきなり天皇杯で決勝進出。と、浮き沈みが大きかった期間と重なるのだが、それが背番号に影響しているのだろうか。実は、その裏により明確な証拠となる出来事があった。

それは、ドイツブンデスリーガの名門バイエルン・ミュンヘンとの提携を結んでいたことだ。
後にプロ野球日本ハムファイターズの社長も務める藤井純一氏が2000年にセレッソ大阪の社長となると、出向元である日本ハムの縁でバイエルン・ミュンヘンのトップと密な関係になった。その結果2000年から2005年までアドバイザリー契約を結ぶこととなったのだ。

そう、セレッソ大阪で2番を付ける選手の特徴が大きく変わった時期と、このドイツサッカーの雄であるバイエルン・ミュンヘンとの提携関係を結んだ時期がピッタリ重なるのだ。
そして、この時期からセレッソ大阪はドイツサッカーの代表的なフォーメーションである3バックを主に採用し始めたのである。
この期間の最終年にあたる2005年には優勝争いを演じながらも、後半アディショナルタイムに同点で追いつかれ優勝を逃す「長居の悲劇」が起こり、さらに翌2006年にはJ2降格と、決してハッピーエンドを迎える事は無かった。
しかし、後にレヴィー・クルピ氏によりブレイクするセレッソ大阪の奥底には、実はドイツサッカーのエッセンスも加わっているということが、受け継がれてきた背番号2番の歴史からも伺い知る事ができる。