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アルビレックス新潟の歴史と共に歩んだ背番号15番

2017 9/13 14:03Aki
サッカーボール
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アルビレックス新潟の誕生

日本と韓国で行われたFIFAワールドカップ2002の開催地として立候補した新潟県は、それと同時にプロサッカークラブの創設を決定。1955年に創部された新潟イレブンサッカークラブがアルビレックス新潟へと変わっていった。
Jリーグへの参加となったのは1999年。コンサドーレ札幌(当時)、ベガルタ仙台、モンテディオ山形、大宮アルディージャ、FC東京、川崎フロンターレ、ヴァンフォーレ甲府、サガン鳥栖、大分トリニータと共にこの年から始まったJ2に参加する「J2オリジナル10」の1つとして、Jクラブとしての歴史を歩み始めた。
これをきっかけにアルビレックス新潟は大きくチームを変革。当時J2に参入したクラブのほとんどがそうだったが、それまでのチームとは選手を大きく入れ替える形を取り、各ポジションに多くのJリーグ経験者が加入することとなる。

地元新潟県出身の本間勲選手

新潟県北蒲原郡中条町(現・胎内市)出身の本間勲選手が加入したのは、アルビレックス新潟がJ2に参入した翌年となる2000年。高校では千葉の習志野高校にサッカー留学をし、全国高校サッカー選手権に出場しているが、高校卒業後に地元に戻りアルビレックス新潟に加入。背番号15番を背負うこととなる。
本間選手はルーキーイヤーの2000年に右サイドの攻撃的ミッドフィールダーとして29試合出場3得点といきなりの活躍を見せるが、翌2001年に現在松本山雅FCで監督を務める反町康治氏がアルビレックス新潟監督に就任すると徐々に出場機会を減らしていく。
2002年のちょうどFIFAワールドカップ開催時期にブラジル短期留学に出るなど、チームからの期待は感じられるものの、おそらくこの時点では、アルビレックス新潟というクラブにとって本間選手がその後大きな存在となる事を予測できていた人は多く無かっただろう。

アルビレックス新潟の中心選手へ

本間選手にとって大きな転機となったのは、守備的ミッドフィールダーへとコンバートされたことだろう。アルビレックス新潟が2004年にJ1へと昇格すると、翌年の2005年に本間選手は完全にレギュラーポジションを獲得する。とはいえ、チームの中心はエジミウソン選手やファビーニョ選手らのブラジル人選手。そしてチームの戦い方も彼らを活かしたカウンター戦術であったため、プレースタイルも派手ではない本間選手の全国的な知名度は、サッカーファンの間でもそれほど高くはなかった。
そんな本間選手の名前が広く知られるようになったのは、対戦相手の監督の多くがアルビレックス新潟の要注意人物として本間選手の名前を上げるようになった事からである。

特に当時鹿島アントラーズの監督を務めていたトニーニョ・セレーゾ氏は、ブラジル代表で守備的ミッドフィールダーを務めていた事もあって、同じポジションとなる本間選手のプレーを高く評価した。
前線の外国人選手が躍動できるのは、本間選手が中盤の守備的な位置で、攻守において効果的なプレーを見せているからで、カウンター戦術の起点となっているのは常に本間選手だと判断していたのだ。
その為、他のチームは前線の外国人選手対策に力を注ぐ中、鹿島アントラーズ対アルビレックス新潟の試合では、いかにして本間選手を止めるかを中心にゲームプランを作り上げていたほどだった。

アルビレックス新潟の成長と共にあった15番

存在感を高めていった本間選手は2007年からゲームキャプテンを務める事になる。またこの年に、アルビレックス新潟にとってレジェンド外国人の1人となっていくマルシオ・リシャルデス選手も加入すると、反町監督の後を継いだ鈴木淳監督が作り上げた攻撃的なチームは大躍進する。クラブ史上最高順位となる6位となるだけでなく、矢野貴章選手もクラブ初となる日本代表に選出された。
このチームの中心となっていたのは、中盤の守備的な位置で相手の攻撃を抑え、ゲームメイクも行う、キャプテンマークを巻いた背番号15番、本間選手だった。
その後、矢野選手やマルシオ・リシャルデス選手、現日本代表選手でもある酒井高徳選手、曺永哲選手など多くの選手が国内外のクラブに移籍するというクラブ事情もあって、時には残留争いに巻き込まれるなど安定した成績を残せていなかった。そのような中でもクラブがJ1に残留できていたのは、本間選手のプレーによる部分も大きかったはずである。
日本代表に選出されるわけでもなく、Jリーグベストイレブンに選ばれる事もなかったが、いつしか本間選手は「ミスター・アルビレックス」と呼ばれるようになり、ホームスタジアムであるビッグスワンスタジアムには本間選手の顔が描かれた大きなフラッグが掲げられる事に。そして本間選手が背負う15番はクラブで最も重要な背番号となった。

衝撃を与えた栃木SCへの移籍

そんな本間選手だが、2014年の夏にアルビレックス新潟を去る決断をしている。
2014年8月12日。チームのエースとなっていた川又堅碁選手が名古屋グランパスへと移籍するというビッグニュースが発表された同じ日に、本間選手の栃木SCへの期限付き移籍が発表され、そして翌年には完全移籍となった。
柳下正明監督(現ツエーゲン金沢監督)が就任すると、柳下監督の推し進める戦術と本間選手のプレースタイルがフィットせず徐々に出場機会を減らす事になっていく。そしてレオ・シルバ選手(現鹿島アントラーズ)や小林裕紀が加入すると完全に出場機会を失った。
2014年は開幕からベンチスタートが続いていたが、それでも懸命にトレーニングに取り組んだ。しかしその甲斐なくメンバー外となる日も続き、遂にアルビレックスの15番を背負ってきた本間選手にとって決して容易ではない決断を下したのだった。

期限付き移籍の際に発表されたコメントでは「自分の置かれている状況、残りの選手としてのサッカー人生を考えた上で、今回の決断になりました。」と語っている。

再びオレンジの15番を背負う

栃木SCでは再び中心選手としてプレーするようになった本間選手。しかし完全移籍となった2015年は、多くの選手の入れ替えや監督交代の末J3降格となる。2016年はJ3で開幕ダッシュに失敗するも徐々に勝ち点を積み重ね始めシーズン中盤には首位に浮上する。そのまま首位を守り続けたが最終節の引き分けで2位となり、入れ替え戦に回る事に。そしてこの入れ替え戦でツエーゲン金沢に敗れ、J2昇格に失敗する。

そんな中、本間選手の動向に関心が集まる。最終的に決まったのはアルビレックス新潟への復帰だった。アルビレックス新潟で歴代最長となる14年半プレーした本間選手が、2017年から再び復帰することとなった。
本間選手の背番号は当然15番。クラブは本間選手がチームを去って以来、この15番を空き番号としていた。
復帰した本間選手の立ち位置は、現状守備的ミッドフィールダーの4番手ほど。2017年の前半戦で先発出場は1試合もなく、途中出場も4試合のみにとどまっている。
しかし、栃木SCでの経験を経た本間選手はその立場を受入れ、最も愛着のあるクラブの為に全てを捧げている。