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鹿島アントラーズのディフェンスリーダーが背負う背番号3

2017 8/25 10:07Aki
サッカー、ユニフォーム、3番
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初代3番、秋田豊氏

Jリーグで固定番号制が始まった1997年、鹿島アントラーズの3番として登録されたのは秋田豊氏だった。 秋田氏といえば、ワールドカップのメンバーにも2度選出されており、ハードなマークと高い打点のヘディングでJリーグ創世記を支えた日本を代表するほどの名センターバック選手だ。
そんな秋田氏はJリーグ開幕となる1993年に愛知学院大学から鹿島アントラーズに加入すると、初年度のJリーグ開幕戦から先発メンバー入りしポジションを掴んでいた。
しかし当時はJリーグが変動番号制だった事もあり、背番号は2。元々秋田氏はセンターバックの選手であったが、ジーコ氏により右サイドバックへのコンバートされ、試合に出場していた。
ブラジルにとって背番号2といえば右サイドバックのポジションの事。その後元ブラジル代表のジョルジーニョ氏や名良橋晃氏、内田篤人選手といった右サイドバックの選手が引き継いでいる。
秋田氏が3番を背負うようになったのは1995年から。この時もまだJリーグは変動番号制だったが、元ブラジル代表の右サイドバックだったジョルジーニョ氏が加入し、秋田氏は本職のセンターバックへ移動。鹿島アントラーズのディフェンスリーダーとして9つのタイトル獲得に貢献している。
ちなみに秋田氏は2004年に名古屋グランパスへ移籍したが、ここでの背番号も2番。
これは名古屋グランパスが鹿島アントラーズとは異なる文化をもっていたからで、名古屋グランパスでは右サイドバックが4番、センターバックは2番を付けてきたからだった。

受け継がれていくディフェンスリーダー

秋田氏の後に3番を引き継いだのは、金古聖司氏だった。
金古氏は東福岡高校で高校選手権2連覇を達成し、鹿島アントラーズに加入後は将来の日本を引っ張っていくと期待されたセンターバックだった。しかしプロ入り直前の、ワールドユースに向けた合宿中に大怪我を負い離脱。その後も怪我に悩まされ続け、鹿島アントラーズではポジションを獲得出来ずにいた。
2004年に秋田氏が名古屋グランパスに移籍したことで、背番号3番を引きつぐ事を決断する。金古氏にとっても最後の勝負だという覚悟だった。
この2004年のシーズン序盤、金古氏はレギュラーポジションを確保し活躍するが、シーズン後半には徐々に出場機会を減らしていく。そうなったのは、この年に加入した岩政大樹選手が台頭してきたからだった。 金古氏からポジションを奪い取った岩政選手は、プロ3年目から2006年から背番号3番を継承。岩政選手は、強さと高さに加え抜群のリーダーシップを持つ、ディフェンスリーダーとなっていった。

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