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日本を代表するディフェンダーへと近づく鹿島アントラーズ 昌子源

2017 8/3 12:07Aki
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森重真人選手に代わって日本代表のファーストチョイスに

2017年5月25日に行われた6月のワールドカップ予選にに向けての日本代表メンバー発表会見は、多くのサプライズがあった。その中でも特に大きなトピックは森重真人選手の落選だっただろう。
森重選手といえばハリルホジッチ監督の下で絶対的な存在だった1人。

2013年7月ザッケローニ監督率いる日本代表に招集されて以来、2017年3月のタイ戦まで53試合に招集され続けた森重選手が、ケガをしている訳でもなく日本代表メンバーから外れることとなったのだ。
2017年に入ってからFC東京で見せる森重選手のパフォーマンスは安定感に欠けており、以前よりもミスが目につくようになっている。

とはいえ、日本代表では吉田麻也選手と森重選手のセンターバックコンビは、日本代表守備陣の核ともいえる存在。これまでの経験などを考えると、ハリルホジッチ監督が森重選手を先発から外す可能性はあっても、メンバーから外す決断を下すまでを予想した人は少なかったのではないだろうか。

しかしハリルホジッチ監督は「最近のパフォーマンスに満足していない。」という理由で森重選手を日本代表メンバーから外した。
そしてこの期間に行われた2試合で、森重選手に代わって、吉田麻也選手とセンターバックでコンビを組んだのは鹿島アントラーズの昌子源(しょうじ げん)選手だった。

ガンバ大阪ジュニアユース出身のプラチナ世代

鹿島アントラーズに所属する昌子選手は兵庫県神戸市出身。現在姫路獨協大学サッカー部の監督を務める昌子力氏を父に持ち、小学6年生の時には関西選抜にも選ばれる存在だった。

当時の関西選抜には、現セレッソ大阪の杉本健勇選手、現サンフレッチェ広島の宮吉拓実選手、さらにはガンバ大阪からドイツに渡った宇佐美貴史選手や現ヴィッセル神戸の大森晃太郎選手も選出されていた。
関西でトップレベルの小学生だった彼らは、中学校に進学するとそれぞれJクラブの下部組織へと進む。杉本選手はセレッソ大阪U-15、宮吉選手は京都サンガFCU-15を選び、昌子選手は宇佐美選手や大森選手と共にガンバ大阪ジュニアユースを選んだ。昌子選手の当時のポジションはフォワードだった。

こうしてガンバ大阪ジュニアユースでプレーし始めた昌子選手だったが、中学2年生の時にケガなどもあってチームから外れるようになってしまう。そして中学3年生の時にガンバ大阪ジュニアユースを退団。一時、サッカーから離れた日々を過ごすが、当時サッカー協会でコーチ養成インストラクターを務めていた父親の紹介で、鳥取県の米子北高校へと進学する。
米子北高校で、Jクラブ下部組織出身として期待を集めた昌子選手だったが、ケガやその後のブランクもあり、1年生の時はほとんど試合に出場することができないままであった。

そこで当時の監督であり現在は総監督となった城市徳之氏は、昌子選手をセンターバックにコンバートする。昌子選手本人は当初、守備的なポジションに抵抗を示したが、新しいポジションで試合に出場するようになるとその才能が開花する。そして高校3年生になるころにはU-19日本代表候補にまで選ばれるほどとなっていた。

鹿島アントラーズでポジションを掴んだ2014年

米子北高校で大きく成長した昌子選手は、まだまだ荒削りながら、ヘディングとフィジカルに優れたセンターバックとして、2011年に鹿島アントラーズに加入する。
Jリーグ屈指の強豪クラブ鹿島アントラーズは、高卒選手をじっくり育て上げる伝統を持つクラブでもある。そのため加入1年目となる2011年に出場した公式戦は天皇杯の2試合のみであった。

しかし、Jリーグトップレベルの選手とゆっくり時間をかけてトレーニングを行う事で成長していき、徐々に出場機会を得始めると、加入4年目の2014年にはついにポジションを確保。
ブラジルワールドカップ直前の2014年3月に行われた国内組のみの合宿メンバーとして、昌子選手も選出された。
昌子選手はこの時21歳。合宿に参加した選手で最年少は当時セレッソ大阪の19歳、南野拓実選手だったが、昌子選手は南野選手に次ぐ若さでの選出だった。

結局、ブラジルワールドカップ本大会に昌子選手が招集される事はなかった。しかし本大会直後、2014年10月に日本代表として初招集。
それまでの合宿メンバーとしてではなく、試合に向けたメンバーとして、初めて選出されることとなる、残念ながらこの時は負傷で辞退することとなったが、11月のメンバーに再び選出され、翌2015年3月のウズベキスタン戦でようやく日本代表デビューを果たすこととなる。

新しい鹿島アントラーズの背番号「3」番

2015年、昌子選手は鹿島アントラーズの背番号「3」番を背負う事になる。
鹿島アントラーズの背番号「3」番といえば、これまで秋田豊氏や岩政大樹選手などチームのディフェンスリーダーが付けてきた番号である。昌子選手についにその鹿島アントラーズ伝統の背番号「3」が与えられることとなったのだ。
鹿島アントラーズの背番号「3」番はフィジカルの強さと高さを持つ選手に与えられてきたこれまでの伝統があり、昌子選手は粛々と受け継ぐことになった。

このシーズンは、鹿島アントラーズがファーストステージで負け越しており、チームにも混乱があったシーズンではあった。しかし監督交代を経てなんとか勝ち進んだルヴァンカップ決勝では、強烈なフィジカルで相手ディフェンスを悩ませ続けていたガンバ大阪のパトリック選手を昌子選手が完封する。
前年に3冠を達成したガンバ大阪において、パトリック選手のフィジカルはチーム戦術上で大きな要素となっていたが、昌子選手がここを封じた事で鹿島アントラーズが優位に試合を運び3-0で完勝。2012年以来となるタイトル獲得に大きな役割を果たした。

大きなブレイクを果たした2016年

昌子選手は単にストッパータイプというだけではなく、カバーリング能力にも長けている。
2015年ガンバ大阪とのルヴァンカップ決勝ではフィジカルの強さを活かしたが、2015年はファン・ソッコ選手、2016年からは植田直通選手と、優れた選手とコンビを組む事で、チーム内で発揮されたのは主に昌子選手のカバーリング能力の方だった。

そんな中、2016年序盤の日本代表招集中に行われた面談において、ハリルホジッチ監督が飛ばした激がきっかけで、昌子選手はさらに成長を見せることとなる。
ハリルホジッチ監督から言われたのは、「もっとボールを奪う事ができるはずだ」という事。
これを受けた昌子選手は発奮し、2015年には84回だったタックル数を2016年には155回とほぼ倍増させる。一気にリーグナンバーワンの数字を記録。さらにインターセプト数も、2015年の4回から2016年は15回へと回数を飛躍的に増やした。

2016年はカバーリングで見せるコーチング能力はそのままに、自らがボールを奪う事もできるプレーを披露し、名実共にJリーグナンバーワンのセンターバックへと成長を遂げる。
2016年のハイライトともいえる、チャンピオンシップで見せた強さにとどまらず、レアルマドリードとのクラブワールドカップ決勝で見せた鹿島アントラーズの底力。このチームを支えたのはディフェンスリーダー昌子選手であった。

長年吉田麻也選手に続くセンターバックが育っていなかった日本代表チームだったが、昌子選手の存在はその中でより大きなものへと成長していく可能性を秘めている。