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ベガルタ仙台の歴代監督がチームに残したモノ

2016 8/13 15:01
イメージ画像,ⒸFabrikaSimf/Shutterstock.com
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J1への昇格と、降格

ベガルタ仙台は東北電力サッカー部を前身とし1994年にブランメル仙台に改称後、1999年に現在のチーム名でJリーグに加盟した。同じ年に1・2部制がスタートしたJリーグでJ2に参戦したが、チームは10連敗し、監督だった鈴木武一は退任。後任は京都パープルサンガの監督だった清水秀彦が引き継いだ。

そこから「あなたとJ1」をチームスローガンに、J1を目指すチーム作りが始まった。その結果、1999年は9位、2000年は5位、2001年にはマルコス(FW)や岩本輝雄(MF)を獲得し、ついにJ2リーグ2位となりJ1昇格を決めた。

2002年は開幕5連勝を飾るなど好調で、加入した山下芳輝(FW)がJ1得点ランキング2位となり日本代表候補に選出。しかしシーズン後半は失速し、チームは年間13位にまで落ちこんだ。そして2003年、出だしは好調だったものの負けが込み、清水は9月で解任となった。

清水に代わって、名古屋グランパスで監督をしていたスロベニアのズデンコ・ベルデニックを迎え、立て直しを図ったものの起動修正できず、年間最終順位15位とJ2降格が決定した。2004年もJ1復帰を目指し若手の起用によって盛り返すも、年間最終順位は6位という結果となり、ベルデニック監督はシーズンをもって解任された。

ブラジルから救いの手

2005年からは元日本代表の都並敏史が就任したが、入れ替え戦出場を逃し、GMと監督が退任、主力選手ら7名も退団し、チームは窮地に陥った。

そこで2006年からブラジルのジョエル・サンタナを監督に迎え、大型補強として3名のブラジル人を加入させた。4バックと3ボランチの7名でディフェンス、ブラジル人3名がオフェンスという完全分業の戦術が当たりシーズン前半を3位で折り返したが、後半に主要メンバーのケガによる離脱によって年間最終順位は5位。またしても昇格ならず、監督は退任、ブラジル人2名も退団した。

続く2007年はヘッドコーチだった望月達也が監督に昇格した。補強につとめた望月はシーズン途中で攻撃中心から守備の安定を図る方向へ舵をきると、これが功を奏し、前半戦は3位にまで浮上。しかし結果は年間最終順位4位と、あと一歩のところで昇格を逃した。望月は監督を辞任し、クラブスタッフとしてフロント入りした。

手倉森体制の登場

2008年、J2に定着しつつある空気を変えようと、前年のヘッドコーチだった手倉森誠を監督に就任。若手を獲得すると同時に各チームからベテランも獲得し、チームの立て直しをはかった。

みちのくダービーで負け越すなど低迷期もあったが、決定力不足を補うため韓国Kリーグで年間MVPを獲得したブラジルのナジソンを獲得。得点力をつけたことで、シーズンでとうとう3位に入った。しかし、入れ替え戦に出場したが引き分けに終わり、復帰にはいたらなかった。

翌年完全昇格をめざし、ブラジルから2選手を獲得。なんとこの年はJ2歴代最多勝ち点を記録し、見事にJ2で初優勝を収めた。また、フェアプレー賞やチェアマン特別賞も受賞し、天皇杯でもチーム初のべスト4に。まさに手倉森体制が花開いた瞬間だった。

ベガルタ仙台東北の復興とともに

ついにJ1再昇格を果たしたベガルタ仙台は1年目こそ14位に喫したが、2年目に躍進を遂げる。

その年は奇しくも2011年東日本大震災の年。ホーム開幕の前日であった3月11日に起こった震災によって、リーグ戦は中断。再開した4月23日、ベガルタは今シーズン初勝利をおさめ、6月22日まで12 試合を無敗でとおした。その後も好調にすすみ、チームは初の4位となった。

この快進撃は翌2012年もおさまらず、開幕から17節まで首位をキープ。その後広島に抜かれるもチーム史上最高位となるJ1で2位を手に入れた。まさに、東北の復興とともに輝く年となった。

ところが翌年からチームは低迷し始める。2013年の年間順位は13位となり、手倉森も解任された。続く2014年と2015年も14位だった。しかし、ベガルタ仙台が再び蘇ることを信じている。