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ヴィッセル神戸の歴代監督がチームに残したモノ

2016 7/31 18:20
神戸
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神戸の復興とともに

ヴィッセル神戸は、岡山県倉敷市を本拠地としていた1966年発足の川崎製鉄水島サッカー部(1987年川崎製鉄サッカー部に名称変更)を神戸に誘致し、1995年よりスタートした。しかし、練習開始予定だった1月17日に阪神・淡路大震災が起こってしまう。

正に神戸復興とともに歩んできたと言っても過言ではないヴィッセル神戸。サンフレッチェ広島の監督をしていたイギリスのスチュアート・バクスター監督を中心に、攻守バランスのとれたチーム作りをした。

当時、清水エスパルスのエースだった永島昭浩が「神戸を勇気づけたい」と95年のシーズン途中に移籍してきてからは得点力が増し、1995年JFLでは6位、1996年には準優勝をし、Jリーグ昇格を決めた。

誕生より2年での昇格はまさにヴィッセル旋風。フェアプレーを重視していたバクスター監督のもと、チームはJFLフェアプレー奨励賞受賞した。なお、紳士的なサッカーはいまでも引き継がれている。

ヴィッセル神戸Jリーグでの厳しい戦い

Jリーグに昇格したものの厳しい洗礼を受け、1stステージ14位、2ndステージ最下位となったヴィッセル神戸。Jリーグ初のフェアプレー賞を獲得するも、バクスター監督は解任された。

その後、1998年に就任したスペインのベニート・フローロ監督も、韓国の爆撃機と言われる金度勲を迎え永島と攻撃力の強化を図ったが、16連敗を喫し解任。2ndシーズンからは、郡晴己監督の元なんとかJ1残留を決定した。また、元川崎ベルディの監督川勝良一氏を迎えた1999年には、守る意識を高め安定したサッカーを目指した。

2000年に永島が引退。2001年に三浦知良とサントスの補強で観客動員数を伸ばし、J1において2度の7位という成績を残した。だが、頻繁な降格危機があり、2002年1stシーズン途中で松田浩コーチが監督に昇格。2003年にはサガン鳥栖の元監督副島博志を迎えたものの成績は振るわず、停滞した雰囲気ができてしまっていた。

民事再生法の申請、かみ合わない補強

2003年12月、多額の負債を抱えたチームはついに民事再生法を申請した。翌年1月に楽天グループの創業者である三木谷浩史が代表を務めるクリムゾンフットボールクラブが営業権を獲得し、新生ヴィッセル神戸としてスタートする。

元チェコ代表のイワン・ハシェック監督を迎え、トルコ代表のイルハン・マンスズを獲得するなど、FWの強化をはかる。だが、イルハンは3試合のみの出場で退団。その後も成績は振るわず、監督は1stシーズン途中で退任した。

それから1年半という短期間に加藤寛、松永英機、エメルソン・レオン、パベル・ジェハークと監督が変わり、2005年7月には主将だった三浦知良が退団。そしてついに初のJ2降格が決定した。うまくかみ合わない補強をファンは忸怩たる思いで見ていた。

チーム目標のJ1での9位を達成

J2で迎えた2006年のシーズンでは、かつて監督を務めていたバクスター氏が復帰するも家庭の事情で帰国。その後、再びコーチから監督へ昇格した松田浩がバクスターの4バック体制を続けた結果、入れ替え戦で見事勝利した。

1年でJ1復帰させた松田はFWに大久保嘉人、GK榎本達也、DFにブラジルのボッティを獲得。これが上手くかみ合い、チームの総得点は4位と攻撃力を上げた。低迷しつつも地道な補強と戦術の見直しを加え、2011年には和田昌裕監督のもと、チーム史上最高の9位となり、ついにシーズン目標が達成された。

しかしその後もJ2降格とJ1復帰を繰り返し安定した好成績は残せず、2015年より迎えたブラジルのネルシーニョ監督のもと、若手の起用やコンバートなど、チームの可能性を広げる戦略がとられている。タイトルを獲得する日が近いと確信するファンが増えている。