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アビスパ福岡の歴代監督がチームに残したモノ

2016 7/31 09:20
アビスパ福岡
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アビスパ福岡はどんなチームで、どのように成長してきたか。今回は、アビスパのクラブ史とともにチームの運営を担った監督について紹介する。

アビスパ福岡の前身は静岡のサッカークラブ

アビスパ福岡は、静岡県藤枝市にあった中央防犯サッカー部が前進で、1995年に福岡県にホームタウンを移し改名した。
同年には監督としてアルゼンチンW杯にも出場し優勝に貢献したホルヘ・マリオ・オルギン氏が招へい、ディエゴ・マラドーナの実弟にあたるウード・マラドーナなど実績のあるアルゼンチン選手を迎え入れ、24勝6敗の好成績で優勝した。その後、オルギン監督は契約が更新されず退団した。
Jリーグ参入元年となった96年シーズンから指揮をとったのは、横浜Mで監督経験のある清水秀彦氏だった。選手は元日本代表のDF津波敏史選手が入団するなど話題を集めたが、16チーム中15位。97年は17位で、98年も18位と2年連続で年間最下位と戦績は振るわなかった。

フィジカルに重きを置いたピッコリ監督の下でJ1へ

Jリーグ参入も5年目となった2000年には、かつて福岡に所属していたネストール・オマール・ピッコリ氏が就任した。
前年の99年を含めても最高位が14位と、チーム状態が上向かない現状から脱却するため、キャンプでは戦術よりもフィジカルに重きを置いた練習となり、選手個人のビルドアップに尽力。この結果、リーグ戦のセカンドステージでは6位という躍進を遂げて、得失点差も初めてプラスで終えることができた。
ピッコリ体制は翌年も続いたが、2年目は逆に思うような成果が出ず、チーム成績も下降線に。ファースト12位、セカンド15位の年間成績15位でJ2へと降格してしまった。

1年でJ1逆戻り、アビスパ福岡迷走期

J2降格を機に、福岡は数年をかけてJ1に上がっても1年でJ2に逆戻りしてしまう、いわゆる「エレベータークラブ」としての長い道のりを歩むことになる。
同時に02年は、チームとしても迷走したシーズンとなった。フランスW敗にも出場したFW呂比須ワグナー選手、広島などで活躍した元韓国代表のMF盧廷潤(ノ・ジュンユン)などのベテランが残留したが、シーズンが開幕すると、監督は代行を含めて1年で3度の交代(今井雅隆氏、望月達也氏、中村重和氏)。
1年でJ1に復帰することを命題とされ、第1クールでは3位とそこそこの位置につけていたものの、後半は頼みのベテランが失速。第2クール以降は次第に順位を落とし8位と惨敗を喫した。

ユース、若手育成に方針転換した松田監督

J2での思わぬ低迷を受けて、再建を託されたのは松田浩氏だった。これまでの補強中心の場当たり的なチーム編成を省みて、ユースや若手の育成へと方針転換に踏み切った。
4年間続いた松田体制は、03年4位、04年3位(入れ替え戦で柏に敗戦)、そして05年に2位となり自動昇格で5年ぶりのJ1復帰を果たした。なお、ワールドユースの日本代表にも選手が選ばれ、これまでの育成方針が結実した。
しかし、J1で迎えた06年は、12節までわずか1勝しかできず16位。この時点で松田氏は解任となり、後任として V川崎や神戸を指揮した経験のある川勝良一氏が就任するも、流れは変わらず年間16位でフィニッシュ。入れ替え戦で神戸に敗れ、シーズン後に川勝氏も辞任した。

福岡の救世主、井原監督でJ1再昇格

07から08年は元ドイツ代表のリトバルスキー氏が後を率いたが、2年間で結果を残せず解任。昨季まで所属した外国人選手と契約を結ばず、若手日本人選手が主体のチーム編成で臨んだ篠田善之監督の下では、3年目の10年にようやく3位となりJ1に復帰した。
しかし、11年シーズンは開幕から13試合連続勝ちなしとJ1勢相手に歯が立たず、篠田氏も解任。17位で再びJ2へと逆戻りとなった。
12から14年にはJ2でもそれぞれ18位、14位、16位と低迷を重ねた中、再建へ就任したのが井原正巳監督だった。3バックと4バックを使い分け、守備を再構築した結果、11戦無敗と上向きに。終盤も怒涛の12戦無敗で昇格プレーオフに進み、C大阪を破りJ1再昇格をものにした。

まとめ

福岡はJ参入当初から苦戦を強いられ続け、就任した監督の抜本的な改革によってJ2からはい上がるチャンスは獲得しているものの、J1に定着するのが難しいようだ。井原体制ではJ1に踏みとどまることができるのか、今後注目が集まる。