「スポーツ × AI × データ解析でスポーツの観方を変える」

雌伏の時を乗り越えたサイドアタッカー 原口元気はW杯ロシア大会で成長の跡を記せるか【前編】

2018 6/19 07:00SPAIA編集部
原口元気,日本代表,Ⓒゲッティイメージズ
このエントリーをはてなブックマークに追加

Ⓒゲッティイメージズ

名門浦和で最年少日本人プロに

日本時間の6月19日午後9時にキックオフを迎える、サッカーW杯の日本―コロンビア。日本代表のメンバーを思うとき、少しばかり思い入れを持ってしまう選手がいる。ドイツ・ブンデスリーガ1部のハノーバーに所属する原口元気。左右のサイドアタッカーとして期待される27歳のこの10年を考えると、大舞台での活躍を願わずにはいられない。

原口のプレーを初めて見たのは、彼が浦和レッズに所属していた2009年のキャンプだった。当時17歳にもかかわらずプロ契約をした直後で、浦和としては史上最年少プロだった。

ドリブルが得意で、テクニックにも優れている。小学生時代から周囲には「天才」と称される選手だった。Jリーグ初ゴールは2009年4月12日のアウエーの名古屋グランパス戦。前半43分、ゴール前のこぼれ球に反応し、右足で決めた。

17歳11カ月3日でのゴールは、クラブ史上最年少ゴールだったにもかかわらず、その時に原口がもらした一言が印象に残っている。

「長かった」

プロ契約が決まった後、主にスポーツ紙が大きく取り上げ、期待をあおった。だが、天才と言われても、中途半端や強引なプレーが目立っていた。思った以上に結果が出せず、不安やいらだちもあったのだろう。それが初ゴール後のコメントにつながったのだと思う。

しかしながら、2009年シーズンはJリーグでの得点はこの1点のみだった。原口が思った以上にプロの壁にぶち当たっている感じがした。

ジュニアユースの池田伸康コーチに話を聞いたことがある。「原口は子どものころから天才だった。ドリブルでフィールドプレーヤー全員を抜いていくんです」。そんな趣旨の話をしてくれたと記憶している。

子どものころから圧倒的な技術を持っていても、体力やスピードは年上の経験豊かな選手にかなわない時がある。成長過程においては必ず起こりうる場面なのだが、原口にとってはプロ1年目のシーズンでそう感じた。

J1のDFには得意のドリブルが思った以上に通用しなかった。スピードも間合いも見切られていた感じがした。ただ、それも20歳になった2011年シーズンになると乗り越えていた。Jリーグで9得点。名実共に名門の大黒柱に成長していた。

負けん気があだに

ただ、2012年のロンドン五輪の代表にはなれなかった。予選突破に貢献したにもかかわらずに、だった。2014年には浦和からドイツのヘルタ・ベルリンへ移籍し、力を磨いたが、W杯メンバーには入れなかった。

若いころの原口は、とにかく負けん気が強かった。

今でも覚えているのが、2009年のキャンプだったと思う。一つ上の学年で高校選手権得点王になった大迫勇也について、「高校生レベルですから」といった趣旨の発言をして、スポーツ紙に大きく取り上げられた。

当時、原口も高校生だから、少しおかしな発言だが、その言葉には彼なりの思いがあったのかもしれない。

2008年秋に行われた高円宮杯。Jリーグのユースと高校が一緒に戦う、高校年代の日本一を決めるこの大会で、原口率いる浦和ユースは初優勝。決勝では名古屋相手に9―1の圧勝で、浦和ユースの力をまざまざと見せつけた。大迫が所属した鹿児島城西高には準々決勝で3―0の快勝。原口自身もゴールをあげていた。だから、「高校生レベルですから」という発言につながったのだと思う。とはいえ、もう少し配慮があってもいいとは思うが。

そんな負けず嫌いから生まれる言動は度々、チームメートとのいざこざを引き起こした。仲間を蹴り、3週間のケガを負わせたこともあった。

天才が故に

「天才」と呼ばれる選手にありがちな、あまりよろしくないエピソードもあった。

池田コーチによれば、ジュニアユース時代の原口には「謙虚さがなかった」という。仲間のパスがずれれば追わなかった。負ければ他人のせいにした。守備やヘディングなど、嫌な練習はしなかった。

アスリートには「我」を通す、少しとんがった部分が必要なときはあると思う。でも、うまくいっていない時期の原口は、この「我」が前面に出すぎていたかもしれない。そして、原口が成長していく中で、この「我」が「献身へと変わっていく。(続く)


《後編》雌伏の時を乗り越えたサイドアタッカー 原口元気はW杯ロシア大会で成長の跡を記せるか【後編】