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全国高等学校サッカー選手権大会の歴史

2017 10/13 10:05hiiragi
サッカー 日本 高校
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関西で始まった大会から全国規模に発展

全国高等学校サッカー選手権大会の第1回大会は1917年に行われた。この頃の大会は全国大会ではなく、関西のみの参加だったようで、優勝は第1回から7回までを兵庫県の 御影師範学校が独占している。

第9回大会からは全国で地区予選が開催されるようになり、関西以外からの参加が始まって全国大会の体裁を整えた。この年も優勝は御影師範だったが準優勝校に広島一中の名前が登場する。

全国大会になり規模も大きくなると他の大会は徐々になくなり、大会の1本化が図られたが戦争による中止を余儀なくされる。再開は1947年第26回大会だった。

1950年、60年代には浦和市が高校サッカー界を席巻

戦後1回目の大会には全国から16チームが集まり優勝は広島高等師範附属中学校だった。

この頃から関東勢が実力を発揮し始める。特に埼玉県の浦和市の台頭が凄まじく、

・1951年に浦和高等学校が初優勝を果たすと1954年、55年と2連勝を達成
・1956年には浦和西高等学校が初優勝を飾る
・1959年60年には浦和市立高校が初優勝から2連勝を達成
・1969年浦和南高等学校が初優勝

このように浦和市のチームが高校サッカー界を席巻した。
そんな中1966年にはインターハイにサッカーが加えられ、高校サッカーの全国大会は国民体育大会の高校の部と合わせて3大会となった。

静岡県勢の台頭と首都圏への会場変更

浦和勢に少し遅れて1962年には静岡県の藤枝東高等学校が初優勝を果たした。

藤枝東高は1962年に続き1963年、1966年、1970年と短期間に4回の優勝を飾り1時代を築くとともに、静岡県サッカー王国の先駆けとなった。この後1970年代~1980年代にかけて清水東高等学校、静岡工業高等学校、静岡学園高等学校などが決勝戦に進出、1982年清水東高等学校、1985年市立清水商業高等学校、1986年東海大学第一高等学校と次々と初優勝を果たした。

1976年に会場が関西から首都圏に移され、国立霞ヶ丘陸上競技場を中心に開催された。決勝戦は浦和勢対静岡勢で争われ、浦和南高校が静岡学園高校を5対4で下し、3回目の優勝を連覇で飾った。

帝京高校の登場と各県1校時代へ

この浦和勢と静岡勢に割って入ったのが東京都の帝京高等学校だった。

帝京高校は1974年に初優勝を挙げると1984年までに5回の優勝を挙げ、1991年と合わせて戦後では最多タイを誇る6回の優勝に輝いている。

帝京高校全盛期の1983年からは、出場校が各都道府県1校(東京は2校)となり48チームで争われる現行方式に変更された。この年の決勝戦は帝京高校と清水東高校の東京対静岡の戦いとなり1対0で帝京高校が勝っている。

Jリーグの開始と国見高校の登場

1980年代後半になるとJリーグ設立に向けての動きが活発となり、1991年にJリーグが設立される。今でこそU-18サッカーリーグがあるが、当時は大半のJリーガーは全国高等学校サッカー選手権大会より巣立っていった。

サッカー界改革途中の1987年に長崎県の国見高等学校が初優勝を果たす。国見高校は、その後も1990年代から2000年代前半にかけて都合6回の優勝を果たし、多くのJリーガーを生み出した。

昨今ではクラブチームに人材が集まり、高校チームの弱体化が進んでいるとも聞こえる。しかし高校サッカー部の持つ伝統や礼儀作法の教えは、何物にも代えがたい財産として残るのではないだろうか。