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【2000年代の衝撃!】サッカー界が揺れた注目の移籍と結果に迫る!

2017 9/13 14:03dai06
クリスティアーノ・ロナウド選手
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2009年!赤い悪魔から白い巨人へ、クリスティアーノ・ロナウド

世界最高峰サッカー選手の1人であるクリスティアーノ・ロナウド選手(以下、敬称略)は、2009年にレアル・マドリードCF(以下、マドリード)に加入した。「白い巨人」の愛称で知られるマドリードは、ロナウドと同じく世界最高峰のクラブの1つである。
彼の古巣であるマンチェスター・ユナイテッドFC(以下、ユナイテッド)には、約130億円とされる膨大な移籍金が支払われた。ユナイテッドも名のあるクラブだが、当時のロナウドが選んだのはマドリードだった。

ロナウドはユナイテッドでのキャリアには恵まれていた。伝統の背番号7を着用し、左サイドでキレのあるドリブルを披露し続けた。恩師であるサー・アレックス・ファーガソン氏の下で、当時の若きロナウドは一気に成長し、世界最高峰の選手となった。

だが、当時の彼はマドリードへの加入は幼い頃からの夢であるということを認めており、結果としてマドリードへの移籍は現実のものとなった。
マドリードに加入してからも、その存在感の大きさは変わらない。決定力、スピード、ドリブルのキレ、オーラ。そのどれもが彼には備わっており、まさにスーパースターと呼んで差し支えないだろう。

30代を迎えてからは若干ドリブルにキレが失われてきたものの、相変わらずのゴールセンスでフィニッシャーとしてゴールを量産し続けている。バロンドールをはじめとした数々の個人賞の獲得、EURO2016優勝で代表でのタイトルにも恵まれた。もう一度言う、彼はスーパースターだ。ユナイテッド在籍時には既にスターだったが、マドリードに加入してからは紛れもないスーパースターとなった。

マドリードのサポーターは我の強い彼に時折反感を示すが、もし彼がマドリードを去ることになったらと思うと、とても恐ろしい。2000年代、そして2010年代のマドリードの栄光は、ロナウドがいなければ成し得なかったのだから。

2000年!最大の禁忌を犯した者、ルイス・フィーゴ

ルイス・フィーゴ氏(以下、敬称略)は、サッカー界でも最大の禁忌を犯してしまった選手として有名だ。

彼は前項のロナウドと古巣と母国を同じくする選手だが、1995年から加入したFCバルセロナ(以下、バルセロナ)の顔とも言うべき選手として君臨していた。

しかし、フィーゴは2000年にバルセロナの宿敵であるマドリードへの移籍を実現させてしまった。この時にバルセロナ側に支払われた金額は約70億円。当時のレートで考えればこの金額は大変大きな金額であり、当時の世界最高額の移籍だった。

バルセロナとマドリードは宿敵同士だ。クラブ、選手、サポーター、街に至るまで、互いを強く敵視する。フィーゴの移籍はバルセロナサポーターからすれば裏切り行為に等しく、彼の経営する日本料理店はひどく傷付けられ、彼自身にも容赦ない罵詈雑言が浴びせられた。
それでもフィーゴは、「バルセロナで十分な扱いを受けていなかった」とし、自分が移籍を決めたのが金のためではなかったこと後に明らかにしている。

かくして移籍を果たしたフィーゴは、バルセロナ時代同様、マドリードでも優れたゲームメイク力を発揮し、銀河系軍団の中心選手となった。
「サッカー界に絶対などない」、サポーターは、彼の移籍からそう強く感じたことだろう。選手のキャリアに最終決定を下すのは選手自身であり、フィーゴを責めることなどできない。

2001年!ユダと呼ばれた男、ソル・キャンベル

フィーゴの移籍の翌年にもサッカー界が揺れる移籍が実現した。それがソル・キャンベル氏のアーセナルFC(以下、アーセナル)への移籍だ。

アーセナルに加入する前のキャンベルは、トッテナム・ホットスパーFC(以下、トッテナム)でプレーしていた。出身はロンドンでトッテナムへの加入は地元クラブへの加入を意味する。
DF(主にCB)としてプレーし、フィジカル、スピード、守りの的確さ、優れた闘争心のすべてを兼ね備え、圧倒的な勝負強さを発揮した。一時はキャプテンも努めており、クラブに欠かせない存在だった。

だが、2001年には同じ街のクラブであるアーセナルに加入。トッテナムとアーセナルの間には強いライバル意識があり、彼もフィーゴと同じく裏切り者のレッテルが貼られた。なかには『新約聖書』等に登場する「ユダ(裏切り者の代名詞)」と呼ぶ声も少なくなかった。

それでもキャンベルは持ち前のクオリティを発揮し続けた。替えの利かない選手であることはアーセナルでも同じだった。歴代のサッカー選手でもトップクラスのDFだ。

2009年!マンチェスターからマンチェスター、カルロス・テベス

2009年にもサッカー界の禁断の移籍が発生している。それがカルロス・テベス選手(以下、敬称略)のユナイテッドからマンチェスター・シティFC(以下、シティ)への移籍だ。

プレミアリーグの覇権を争う2クラブは犬猿の仲だ。このマンチェスターからマンチェスターへの移籍はサポーターからの反感を買った。

しかしテベスはどこでも結果を出せる選手だ。爆発力のあるドリブル、決定力の高さはシティでも発揮され、加入1年目から23得点を挙げた。それでいてゲームメイク力にも優れる彼は、加速してシュートに向かうと見せつつ、味方に技ありのアシストを連発した。後に加入してくる同胞のセルヒオ・アグエロ選手ともフィットし、シティの攻撃陣を飛躍的に向上させた。
テベス加入前後のシティは、クラブ改革を進めている真っ最中でありテベスはその先駆けだった。

なお、テベスはシティの後にユヴェントスFC(以下、ユヴェントス)や古巣のボカ・ジュニアーズなどに加入することになるのだが、やはりテベスはどこでも結果を出し続けた。多くのクラブが彼の存在に助けられてきたのだ。

2004年!世界屈指の優勝請負人、ズラタン・イブラヒモヴィッチ

2004年には世界でも屈指の優勝請負人が欧州にやってきた。それがズラタン・イブラヒモヴィッチ選手(以下、敬称略)だ。

母国スウェーデンのマルメFF、AFCアヤックスを経て、ユヴェントスにやってきた彼は、体幹に優れどんな体勢からもゴールを生み出すことができた。
ユヴェントスはカルチョポリによって、2004-06のセリエAの優勝が剥奪されてしまうのだが、イブラヒモヴィッチの存在によって当時のユヴェントスが無類の強さを発揮したのは事実だ。

ユヴェントスの後には2006年にインテルナツィオナーレ・ミラノに加入し、同クラブのセリエAの連覇を支えた。そしてその後にはACミラン、パリ・サンジェルマンFCといったビッグクラブを渡り歩き、リーグ優勝を成し遂げた。

彼の移籍先となるクラブは優勝する。サポーターが彼に向ける眼差しはいつも期待に満ち、輝いている。