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【1990年代の衝撃!】サッカー界が揺れた注目の移籍と結果に迫る!

2017 9/13 14:03dai06
ハビエル・サネッティ氏
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1995年!将来のインテル会長間違いなし?ハビエル・サネッティ

1995年にインテルナツィオナーレ・ミラノ(以下、インテル)加入したハビエル・サネッティ氏(以下、敬称略)は、インテルの公式戦を800試合も戦った。
インテルにはサネッティ同様に数多くのアルゼンチン人選手が加入しているが、そのなかでもサネッティという選手は別格の存在だ。彼の加入はインテルの未来を築くものとなった。

サネッティはMFとして中盤の底やサイドをカバーするだけでなく、SBなどのDFもこなすことができる。非常にユーティリティー性が高く、どんなプレーもそつなくこなしてみせる。プレー時の落ち着きぶりは若い時から、現役引退まで一貫しており、1999年からはキャプテンとしてプレーした。攻撃と守備両方をこなせるというユーティリティー性の高さは、2000年代に入ってからより一層重要視されてくるのだが、サネッティはその先駆けといえるだろう。

サネッティは2014年に現役を引退。彼の着用していた背番号4は永久欠番となった。そして、そのままインテルのフロントに参加し、インテルの副会長に就任。今度はクラブを内側から支える立場となった。海外資本の入れ替わりが激しいインテルにとって、クラブの勝手知ったる男、サネッティの存在は貴重だ。

将来的なインテルの会長の座には、もしかするとサネッティが就任するのかもしれない。彼ほどクラブに貢献し、人望の厚い人材はそう見つからないだろう。サポーターも彼の会長就任に反対するとは思えない。

1990年!偉大なるポニーテールをなびかせて、ロベルト・バッジョ

1990年にはロベルト・バッジョ氏(以下、敬称略)がユヴェントスFC(以下、ユヴェントス)に加入した。

バッジョは「イタリアの至宝」「偉大なるポニーテール」などと称された、イタリアサッカー史を代表する選手だ。その愛称通り、彼のトレードマークは短く結ばれたポニーテールだ。ユヴェントスの背番号10と聞いてバッジョを思い浮かべる方も多いだろう。

バッジョは若い頃から現役引退まで、イタリアのクラブ一筋でプレーしてきた。10代の頃から得点を量産し続け名声を得たバッジョは、1990年に当時の史上最高額の約20億円でACFフィオレンティーナ(以下、フィオレンティーナ)からユヴェントスに移った。

フィオレンティーナで一定の地位を得ていたバッジョは、この古巣から容赦ない非難を浴び、暴動が発生する事態までに至る。ユヴェントスの選手としてフィオレンティーナと対峙する際にもブーイングを浴びせられ、彼がボールを蹴る度に大きな野次が飛んだ。
ただ、その試合でユヴェントス側がPKを得た時には、バッジョがキッカーを拒否。激怒した監督に交代を命じられるも、観客の拍手とともにピッチを去ることができた。

当初のバッジョはユヴェントス移籍を必ずしも快く思っていなかったが、その後も1995年まで同クラブでプレーを続け、いくつもの勝利に貢献した。その間にはバロンドールやFIFA年間最優秀選手賞など、複数の栄誉にも恵まれている。

しかし、1995年にはクラブが高額の給与を支払うことに難色を示したことと、若いながらも成長を遂げてきたアレッサンドロ・デル・ピエロ氏(以下、敬称略)に立場を譲るような形で、インテルへと移籍することになる。悩みつつもユヴェントスで大活躍していたバッジョには、少々酷だった。

1993年!受け継がれし10番の系譜、アレッサンドロ・デル・ピエロ

バッジョの10番を引き継いだのがデル・ピエロ選手(以下、敬称略)だ。
彼は1993年にユヴェントスに加入し、バッジョの後ろ姿を見ながら経験を積んだ。ユヴェントス以前にいたクラブはカルチョ・パトヴァというクラブだ。このクラブは幾度となく財政難や成績の低迷といった困難に見舞われているのだが、1993-94シーズンには前シーズンのデル・ピエロの活躍も幸いして、プレーオフを通過しセリエAに昇格している。デル・ピエロが抜けてからは、また低迷してしまう。

ユヴェントスに移ってからのデル・ピエロは、飛ぶ鳥を落とす勢いで成長を遂げた。バッジョも例外ではない。
繊細なタッチと機をみた抜け出しができ、最前線よりも少し後ろ、特に左サイドからの攻撃を得意とした。ゴール前左45度の角度から彼が蹴るシュートは、ボールがゴールに美しく吸い込まれ続けた。こうしてゴール前45度は「デル・ピエロ・ゾーン」と呼ばれるに至る。彼がこのゾーンでボールを持った時、多くの相手選手が彼のゴールを阻止すべくマークにつく。しかし、彼のシュートはその壁を越えて、やはり美しく決まった。

1996年!バルセロナの戦術だった男、元祖ロナウド

近年では「ロナウド」と聞くと、クリスティアーノ・ロナウド選手のことを思い浮かべる方も多いのかもしれないが、一部の世代の方にとってのロナウドとは、「フェノーメノ(怪物)」と呼ばれたブラジル人のロナウドを「ロナウド」と考える。ロナウド・ルイス・ナザーリオ・リマ氏(以下、敬称略)のことだ。

ロナウドは90年代から2000年代のサッカー界を象徴する選手だ。いや、サッカー史上でも最高と考える選手と考える方も多いだろう。1994年にはオランダの名門、PSVアイントホーフェンに加入し、1996年にはバルセロナに加入した。バルセロナでは37試合で34得点を挙げ、欧州の最高峰でも通ずる力を持つことを証明した。

彼の力を一言で表すならば「爆発力」だろうか。ドリブルのスピード、相手を寄せ付けないフィジカル、正確なシュート。そのどれもが凄まじい爆発力をもって発揮され続けた。当時の彼を止められる選手は誰もいなかった。ボールを持てば必ず得点に絡むような選手だ。

ロナウドがバルセロナに在籍した1年は、ボビー・ロブソン氏(以下、敬称略)が監督を務めていた時期を同じくする。「(バルセロナには)攻撃に戦術が足りない」と非難された時には、「私の戦術はロナウドだ」と返してみせ、当時の話題をさらった。

その後、ロナウドはインテルやレアル・マドリードCFなど世界の名門を渡り歩くのだが、やはりその影響力は絶大だった。

1992年!ユナイテッドで王となった男、エリック・カントナ

エリック・カントナ氏(以下、敬称略)は1992年にマンチェスター・ユナイテッドFC(以下、ユナイテッド)に加入し、同クラブの「王」になった。ユナイテッドの栄光の7番も、このカントナの存在が起源だ。

彼は、ぞんざいな物言いや態度、サポーターやチームメイトとの争いで物議を醸したが、サッカー選手の実力はとても優れていた。ボールを持てば必ず何かができる選手で、ゴール前では冷静に得点を挙げ続けた。

見かけによらずというと語弊があるかもしれないが、極めて繊細にボールに触れることができ、トラップ、ドリブル、シュートの一連の流れに無駄が感じられない。彼に寄せられる非難は、彼の素晴らしいプレーの下にかき消されていった。故に彼は「王」と呼ばれるほどの地位を得た。

惜しむらくは、31歳という現役引退の早さだけだろうか。