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日本人初のAWA世界ヘビー級王者、ジャンボ鶴田の生涯とは

2017 2/9 09:26
プロレスリング,ⒸShutterstock.com
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Photo by 977_ReX_977/Shutterstock.com

プロレス好きな人も、あまり知らない人も、その名前を知っている人は多いのではないでしょうか。3冠ヘビー級初代王者にまで上りつめた伝説のプロレスラー、ジャンボ鶴田さんの、生い立ちや功績などをご紹介します。

ジャンボ鶴田さんの生い立ち・その1

ジャンボ鶴田さんは、とても大きなブドウ農園を営んでいる両親のもとに生まれました。その当時は体が小さく女の子のようだったので「友美」という名前を付けられたそうです。
中央大学法学部で学生をしていた頃までは、ずっとバスケットボールをしていました。ただ、バスケットボールではプロになれないこと、日本の実力ではオリンピックに出られないことから、バスケットボール部を退部しました。その後、オリンピックに出場にむけ自分の体格を活かせるような競技を探し、大学のレスリング部に入部を希望しました。

ジャンボ鶴田さんの生い立ち・その2

レスリング部への入部を希望するも、「一つのスポーツをやりとおすことのできない奴は何をやってもダメ」とのことで一度入部を断られますが、大学3年生になったときにレスリング部から逆にオファーが来たそうです。そこからはレスリングの日本代表に選ばれるなど才能を開花させていきました。
そのレスリングの実績を見たジャイアント馬場さんからスカウトを受けてプロレスの世界に入りました。ジャンボ鶴田さんは最初プロレスに対して偏見を持っていたそうです。ですが、父親が亡くなったことにより、自分の人生に挑戦してみようと思いプロ入りを決意したとのことです。

全日本プロレスに入団したジャンボ鶴田選手

ジャンボ鶴田さんは、プロレスに入団してしばらく経った後、テキサス州のアマリロにいるザ・ファンクスの下で修行を積みました。その時一緒に修行したスタン・ハンセンさんとはとても気が合う仲だったそうです。このとき、スタン・ハンセンさんよりも重いベンチプレスを持ち上げていました。
その後、1973年についにプロデビュー。2ヶ月後にはNWA世界ヘビー級王座に抜擢されました。その後、スタン・ハンセンさんとパートナーを組み、インターナショナル・タッグ王座に挑戦しました。

ジャンボ鶴田さんのプロレスでの功績

ジャンボ鶴田さんがプロレスをしてきた中で獲得してきた主なタイトルをご紹介します。
3度載冠した「三冠ヘビー級王座」、「AWA世界ヘビー級の王座」、5度戴冠した「UNヘビー級王座」、天龍源一郎さん、ジャイアント馬場さん、谷津嘉章さんをパートナーとして戦った「インターナショナル・タッグ王座」、谷津嘉章さんと2代目タイガーマスクさんをパートナーとして戦った「PWF世界タッグ王座」、7度戴冠した「世界タッグ王座」、ジャイアント馬場さんと組んだ「NWA認定デトロイトタッグ王座」など、さまざまな功績を残してきました。

ジャンボ鶴田さんのプロレス引退後

1999年2月20日に引退の記者会見を行ったジャンボ鶴田さん。その後、3月6日に引退セレモニーを行いました。引退後はスポーツ生理学を教えるために、研究の交流プロフェッサーの制度を利用してオレゴン州にあるポーランド州立大学に着任することになりました。
教授になる話の前後に元々B型肝炎を患っていたようで、その後病に伏します。肝硬変が肝臓癌へ悪化して、最終的に肝臓移植をすることを決断します。しかし、移植手術中に大量出血をして、そのまま帰らぬ人となりました。2000年5月13日、49歳という若さでした。

まとめ

ジャンボ鶴田さんの生い立ちや今まで残してきた功績、引退後の足跡を辿ってみました。プロレスに興味を持った方も、プロレスを好きな人も、選手それぞれの生い立ちなどを知ることで、もっと奥深くプロレスを楽しむことが出来そうですね。