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日本プロレス最高峰のビッグネーム、ジャイアント馬場選手の魅力を解説

2017 1/18 10:02
プロレスリング,ⒸShutterstock.com
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Photo by 977_ReX_977/Shutterstock.com

209センチの巨体から繰り出される圧倒的な迫力で、新旧を問わずプロレスファンを魅了し続けたジャイアント馬場選手。 61歳という早すぎる他界でしたが、彼がプロレス界に残した功績は多大です。 現役時代の活躍とともに振り返ってみましょう。

最初はプロレスラーではなく野球選手

新潟県三条市出身のジャイアント馬場選手は、小学校から野球を始め、中学・高校時代はエースとして活躍。身長は小学3年生の頃から伸び始め、高学年に差し掛かる時点で175センチ、高校時代には190センチを超えていました。 足のサイズも大きくなったため、高校時代は自分に合うスパイクがなく、一度は野球を辞めて美術部に在籍。
その後、野球部長のはからいによって特注スパイクを手に入れて野球に復帰すると、練習試合で三振の山を築くエースに。2年生で迎えた甲子園予選ではサヨナラ負けで敗退するも、後にファンでもある巨人から直々にスカウトがあり、高校を中退してプロ野球の世界に飛び込みました。

プロ野球では好投を見せるも解雇、日本プロレス入門

馬場選手は1957年にプロ野球デビュー。同年の中日戦で200勝がかかった杉下茂選手と投げ合い、5回1失点の好投を見せたことは有名な逸話です。二軍では3年連続で2ケタ勝利を挙げる活躍を見せましたが、幹部の評価は今ひとつで、1959年のオフに解雇通知を受けました。
しかし、巨人時代に馬場選手を評価していたコーチとともに大洋への移籍が決まっていたため、悲観することなく翌シーズンに向けて準備するも、キャンプ中に風呂場でひじに大怪我を負い、入団はご破算。1960年4月、巨体を生かしたスポーツで生計を立てようと、力道山選手に直訴する形で日本プロレスに入団します。

日本プロレスでは猪木選手と同日にデビュー

日本プロレスにおいて、馬場選手の同期だったのは燃える闘魂、アントニオ猪木選手です。2人は1960年9月に同日デビューを果たしますが、デビュー時から力道山選手は馬場選手を優遇し、猪木選手をシゴいて育てる傾向が見られました。リングにおける2人の直接対決は、馬場選手の16勝0敗と一方的でしたが、私生活では兄弟のように仲良く下積み時代を過ごしました。
その後、力道山選手は暴力団員とのケンカの末に他界しましたが、日本プロレスのエースに成長した馬場選手に対してライバル心を抱いていた猪木選手は、旧エースで解雇された豊登選手に口説かれ、新設の東京プロレスへ一時移籍することに。2人はここから次第に袂を別つことになりました。

全日本プロレスの旗揚げ

力道山選手に評価されて1961年にアメリカへ修行に出た馬場選手は、短期間で現地でもメーン試合や世界タイトル戦を張れるまでに成長。リングネームを「ババ・ザ・ジャイアント」と名付けられたことから、「ジャイアント馬場」と名乗るようになりました。
日本プロレスでは数々の栄冠を獲得しましたが、同団体は経営側と選手側の対立が次第に深まっていき、スポンサーや中継テレビ局の後押しもあって1972年に全日本プロレスを設立。全日本のヘビー級初代王座をはじめ、1974年には当時最も権威が高かったNWA(ナショナル・レスリング・アライアンス)世界ヘビー級の王者にもなり、名実ともに世界を代表するレスラーとなりました。

猪木選手と馬場選手、夢のプロレス「BI砲」

全日本の馬場選手、新日の猪木選手と、日本の2大メジャー団体を設立した2人ですが、過去には一緒にタッグを組んでファンを沸かせたこともありました。タッグの通称は野球の王貞治選手・長嶋茂雄選手による「ON砲」にちなんで「BI砲」。
1967年、設立数ヶ月で解散した東京プロレスから復帰を許された猪木選手は、馬場選手と初タッグを組み、日本プロレスでインターナショナル・タッグ王座を計4回獲得。袂を分かった後に開かれた1979年のオールスター戦でも一夜限定でタッグが復活しました。

まとめ

ジャイアント馬場選手は、1985年以降、タイトル戦からは身を引いたものの、死去した1999年1月の前月までリングに上がり続けました。 あまりにも急な訃報に多くのファンは衝撃と悲しみを覚え、ファン葬が営まれた1999年4月の翌月には本人不在の中で「引退記念試合」を開催。 「プロレスの巨人」は、今なお日本プロレス界のカリスマとして多くのファンの脳裏に勇姿を焼き付けています。