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新日プロレス生みの親 アントニオ猪木選手の功績を解説

2017 1/18 10:02
プロレスリング,ⒸShutterstock.com
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Photo by 977_ReX_977/Shutterstock.com

新日本プロレスの生みの親であり、モハメド・アリとの異種格闘技戦など数々の名勝負をくり広げたアントニオ猪木選手。 日本のプロレスラーの中でも最も知名度の高い人物の一人だが、具体的にどのような功績を挙げたのかについてまとめてみた。

力道山にブラジルでスカウトされてプロレスデビュー

猪木は家族とブラジルに移住して農場で働いていた10代前半、遠征で訪れていた力道山選手にスカウトされ、1960年に17歳でプロレスデビュー(結果は敗戦)。

当初のリングネームは本名の「猪木寛至」。現在の「アントニオ猪木」は先輩レスラーだった豊登によって命名されたものだ。師匠の力道山選手は、猪木を日系ブラジル人として南米における興行の目玉にしようとしていたが、猪木選手のデビューから3年後の1963年末に亡くなった。

新日本プロレス生みの親

猪木選手が1972年に旗揚げした新日本プロレスは、今でこそ全日本プロレスと人気を二分する国内のメジャー団体だが、その6年前に立ち上げた東京プロレスはわずか3ヶ月で破産。仲介で復帰できた日本プロレスでは、ジャイアント馬場選手とのタッグ、通称「BI砲」で人気もタイトルも獲得したが、団体との確執もあって1971年に追放処分となった。

そこから新たに設立した新日も立ち上げ間もない頃は苦しい経営を強いられたが、タイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセンといった大物外国人の育成やWWWF(現:WWE)との提携によって、注目の対戦が増えて黄金時代を築いた。

卍固め、延髄切り…猪木選手のプロレス必殺技

猪木選手が使う代表的なフィニッシュ・ホールドといえば、第一に挙げられるのが卍固めだ。それまで多用していたコブラツイストを他の選手も頻繁に使うようになったため、新たな技として開発し、1968年に初めて使ったとされている。

技の名前はテレビのプロレス中継を通じて募集が行われた他、レフェリーの沖識名(おきしきな)氏は「オクトパス・ホールド」とも名付けた。

また、ジャンプして相手の後頭部に蹴りを入れる延髄切りも、猪木が考案した技であり、異種格闘技戦で対戦したモハメド・アリ選手は、技を見て使用の禁止をルールに盛り込ませたという逸話がある。

プロレスのストロングスタイルとは

猪木がプロレスにおいてたびたび提唱してきた「ストロングスタイル」。プロレスの試合におけるコンセプトの一種であり、強さを前面に出すことから別名「闘魂プロレス」とも呼ばれている。抽象的な概念のようにも思えるが、「見栄を排除したプロレス」とも説明できる。

技と技の間の不自然なパフォーマンスや、対戦相手と呼吸を合わせて技を掛け合うようなやり取りをやめることで、実力主義に基づいた力ずくのプロレスを展開しよう、という主張のことを指す。

プロレス引退

「プロレスの神様」とされるカール・ゴッチ選手が保持していた世界ヘビー級王座の獲得や、IWGP(インターナショナル・レスリング・グランプリ)リーグ戦4度優勝など、数々の金字塔を打ち立ててきた猪木だが、1994年から引退に向けてカウントダウン試合が組まれ、1998年のドン・フライ戦に勝利して引退。「この道をゆけば」で始まる引退スピーチは非常に有名な話だ。

引退後は政界進出や新興プロレス団体のプロデュース、イベントに登場して場を盛り上げるなど、多方面でも活躍した。

力道山との出会いからプロレスに入門し、東京プロレスの経営破綻などの苦い経験を経て、アントニオ猪木は新日本プロレスの創設メンバーの一人として立ち上げ、今日を築いてきた。

そして誰もが知っている必殺技など、その存在感はプロレスを知らない人にも広く及んだ。 アントニオ猪木はプロレス界だけでなく、多方面に渡って「道」を作った功労者であった。