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4大メジャー大会に確かな足跡を残したプロゴルファー中嶋常幸

2017 8/3 12:07hiiragi
Masters,golf
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賞金王に4度1980年代~1990年代の男子プロゴルフを牽引

中嶋常幸選手は1954年生まれ、群馬県出身のプロゴルファーだ。10歳の頃よりクラブを握り、アマチュア時代から活躍、1973年には日本アマチュアゴルフ選手権競技で優勝を果たした。1975年プロ入りをすると、翌1976年にはゴルフダイジェストトーナメントで初優勝を飾る。1977年には日本プロゴルフ選手権大会に優勝、賞金ランキングも5位に着ける健闘を見せた。
中嶋選手が本当に活躍を見せるのは1980年に入ってからだ。1980年プロ3勝目を挙げると1981年には無冠ながら賞金ランキング3位まで躍進する。1982年には年間5勝を挙げて念願の賞金王に輝いた。以降賞金王には4度輝き、ツアー勝利数は48勝と1980年代~1990年代にかけての日本男子プロゴルフ界を牽引した。当時のライバルだった青木功選手、尾崎将司選手と共に頭文字をとってAONと呼ばれている。
2004年からはシニアツアーにも参戦、レギュラーツアーと掛け持ち参戦の中、2006年に行われた三井住友VISA太平洋マスターズでは史上4人目となる50歳代でのレギュラーツアー優勝を果たした。また、競技出場の傍ら、ジュニア育成アカデミーを主催ジュニアの育成にも力を注いでいる。2017年日本ゴルフツアー機構相談役に就任した。

マスターズに残した絶望と達成感

中嶋選手にはマスターズがよく似合う。都合11回出場して素晴らしい結果と絶望的なエピソードを残している。
初出場となった1978年には、練習ラウンドで手ごたえをつかんだのか自信満々で臨んだ。しかし結果は初日80、2日目80とあえなく予選落ちを喫してしまう。特に2日目の魔女が住むといわれるアーメンコーナー13番ロングホールでは、初日の挽回をしたかったのか、無理とも思える攻めを見せて、クリークに2度打ち込みまさかの13打、魔女から手痛い洗礼を受けた。
リベンジを誓った中嶋選手にチャンスは8年後に訪れた。1986年は3日目を終わって首位と2打差の6位と絶好の位置から最終日を迎えた。ジャック・ニクラウス選手、トム・ワトソン選手、セベ・バレステロス選手、グレグ・ノーマン選手に囲まれて優勝争いを演じるも、優勝には届かず8位で競技を終えた。
それでも4日間全てを、日本人初となるアンダーパーで回り、日本人2人目となるベスト10でのフィニッシュだった。そして5年後の1991年にも10位に入っている。マスターズには通算11回出場、予選落ちが5回、ベスト10が2回の成績だった。

4大メジャー全てでベスト10フィニッシュ

全英オープンの初出場も1978年だった。セント・アンドルーズ・オールドコースで行われたこの大会は初日から好調で、3日目16番ホールでバーディを奪い首位に並んで17番ミドルホールに臨んだ。このホールも2オンを果たす。
そして放ったバーディパットはグリーンの傾斜に負けて無情にもガードバンカーに入ってしまう。それでもボギーで上がればまだまだチャンスはあったのだが、バンカーの脱出だけで4打を要してしまいスコアは9打。優勝争いから脱落してしまった。
そしてリベンジのチャンスはやはり8年後の1986年にやってきた。ターンベリー・アイルサコースで行われたこの大会は、3日目を首位と1打差の2位で終える。最終日は首位グレグ・ノーマン選手と最終組で回った。しかし、メジャー制覇の重圧からか77を叩き8位タイで競技を終えた。
全米オープンの初出場は1983年だった。この大会は26位タイに終わったが、4回目の出場となった1987年には9位に入る頑張りを見せた。
全米プロゴルフ選手権への初出場は1983年だった。この試合では予選落ちだったものの、翌1984年には10位タイに入り、6回目の出場となった1988年には3位に入っている。
中嶋選手はメジャー全てでベスト10に入っているが、日本人では松山英樹選手と2人だけしかいない。

日本ツアーでは賞金王4度と永久シード

中嶋選手はレギュラーツアーで48勝を挙げているが、1982年~1986年の5年間で27勝を稼ぎ、4度の賞金王も全てこの時期に獲得した。
1976年の初優勝から1981年までで3勝を挙げて迎えた1982年は、4月に行われたダンロップ国際オープンで1勝目を挙げると、5月には2勝目、6月3勝目と8月までに4勝を挙げる活躍を見せ、最終戦ゴルフ日本シリーズでも優勝、年間5勝で5年連続賞金王を目指す青木功選手を抑えて見事賞金王にも輝いた。
翌1983年は3月に行われたシーズン初戦静岡オープンで1勝、5月に2勝と8月までに5回の優勝を飾り、賞金王レースも独走、9月以降も3勝を積み重ね、年間8勝で2回目の賞金王を連覇で飾った。
1984年は2勝に終わり賞金王にもなれなかったが、1985年には6勝を挙げて3回目の賞金王を獲得した。この頃になると各トーナメントの賞金総額も増加、1983年に1億円の大台に乗せたダンロップフェニックスが1億2千万円、太平洋クラブマスターズ が8千万円だった。優勝賞金はそれぞれ2160万円と1440万円でどちらも優勝をした中嶋選手は、日本人で初めて賞金獲得額1億円越えの選手となった。
1986年も年間6勝を挙げ4回目の賞金王に輝くと共に、プロ25勝も達成永久シード権も手に入れた。

ナショナル大会3冠を制し、プロゴルフ公式戦6冠も達成

2004年になるとシニアツアーへの参戦を開始した。シニアツアーへの出場資格は満50歳からだが、年齢的にも若い資格を取りたての方が、優勝のチャンスが多いといわれている。中嶋選手の初優勝は参戦2年目の2005年11月に行われた日本シニアオープンゴルフ選手権競技だった。
この優勝で日本ゴルフ協会(JGA)主催のナショナル大会である、日本アマチュアゴルフ選手権競技、日本オープンゴルフ選手権競技、日本シニアオープンゴルフ選手権競技を制し、それぞれのポジションでの最高峰を極めた。
さらに2006年にはプロゴルフシニア選手権大会コマツ杯に優勝、レギュラーツアーの公式戦4戦と合わせて公式戦6冠を達成する。
ここでいうレギュラーツアー公式戦は、日本オープンゴルフ選手権競技、日本プロゴルフ選手権大会、日本プロゴルフマッチプレー選手権、ゴルフ日本シリーズを指す。このうち、日本プロゴルフマッチプレー選手権は2003年で終了。2017年時点での公式戦は、残りの3大会に2000年から始まった日本ゴルフツアー選手権を加えた4大会になっている。
2016年はレギュラーツアー6試合、シニアツアーには7試合出場した。2017年は久しぶりに優勝の声を聞いてみたい。