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これはすごい、日本ゴルフ界最多勝利、尾崎将司選手の実績と功績

2016 12/21 19:03
ゴルフ
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Photo by SOMKKU/Shutterstock.com

ジャンボ尾崎の愛称で勝利を積み重ね、日本のゴルフ界をリードした尾崎将司選手を知らない方はいないと思う。 ここでは尾崎将司選手について、ゴルフを始めたいきさつや、すごすぎる実績など紹介したい。

甲子園の優勝投手から西鉄ライオンズに入団

尾崎将司(本名・尾崎正司)選手は、1947年に徳島県で生まれた。小さい頃から運動神経抜群で、当時の子供なら当然だった野球の道に進む。1964年、徳島海南高校のエースとして春の甲子園に出場、順調に勝ち進み全国制覇を成し遂げた。
一躍脚光を浴びた尾崎選手は、翌1964年にプロ野球の西鉄ライオンズ(埼玉西武ライオンズの前身)に入団し、将来を嘱望される。しかし、成績は振るわなかった。打者としての可能性も探ったが、結局1967年には西鉄に退団の意思を伝える。入団から3年目の決断だった。

ゴルフに転身、そして初優勝

プロ野球を退団した尾崎選手は、ゴルフの道に舵を切る。1970年にはプロテストに一発で合格、プロゴルファーとしての一歩を踏み出した。初優勝は翌年1971年9月に行われた日本プロゴルフ選手権だ。
宮崎県のフェニックスCCで行われた第39回日本プロゴルフ選手権は、7105ヤード・パー72と、当時としては長い距離に設定された。最終日第4ラウンドの10番ホール495ヤード・パー5で、第2打を4番アイアンでオンして見事イーグルを奪い、優勝を手繰り寄せる。尾崎選手のパワーゴルフの幕開けとも言える初優勝だった。

初代賞金王を獲得し、計12回の最多賞金王に

日本プロゴルフ選手権で初優勝を果たした尾崎選手は、その後の試合でも3ヶ月間で5勝と留まるところを知らない。そして、1973年から始まった賞金ランキング制では見事初代賞金王に輝く。年間優勝回数5回、獲得賞金額4381万4000円という快挙だった。
翌1974年も賞金王に輝き、このまま独走が続くかと思われたが、1977年を最後にライバルの青木功選手や中島常幸選手に押され、しばらく低迷期が続いた。
再び賞金王に返り咲いたのは、1988年のことだった。それからは3年連続、5年連続と回数を重ね、合計12回の賞金王に輝く。この記録は最多賞金王記録として現在も破られていない。

最多優勝と最年長優勝記録

尾崎選手は今までに113回優勝を果たしている。この勝利数は海外ツアーの選手も含めて最多勝として認められている。
内訳は国内112勝、海外1勝で、1973年国内ツアー制度以降94勝となっている。国内ツアーの永久シードが25勝以上なので、どれほどにすごい記録かわかる。さらに、国内112勝のうちメジャーと呼ばれる公式戦で20回優勝しており、これも国内最多記録だ。
そんな尾崎選手の最後の優勝は2002年の全日空オープンだった。その時の年齢は55歳で、これはツアー優勝最年長記録として残っている。

世界殿堂と後輩への思い

2010年、尾崎選手は世界殿堂入りを果たす。日本では樋口久子選手、青木功選手、岡本綾子選手に次ぐ4人目の快挙だった。それに対して尾崎選手は現役でありながらの受賞に戸惑いながらも、世界で認められた喜びを表す。
尾崎選手は海外進出に対して消極的だったイメージがあるが、マスターズには19回、全米オープンには12回出場している。また、自身のメッセージでは石川遼選手や松山英樹選手のアメリカツアー挑戦を素晴らしいこと、期待が膨らむこととエールを送っている。
その体格とドライバーの飛距離からジャンボと呼ばれ一時代を築いた尾崎選手は、2016年現在でも現役選手としてトーナメントへの出場を続けている。

まとめ

ジャンボ尾崎こと尾崎将司選手について紹介した。 数字や記録はほとんどが国内最高で、尾崎選手の偉大さがよくわかる。2016年もレギュラーツアーに参戦中の尾崎選手だったが、自身の最終戦で腰痛のため途中棄権をしてしまった。 重大な局面という本人の発言もあり、今後が心配だ。