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国民的スター石川遼選手のゴルフ界における功績

2016 12/21 19:03
ゴルフ
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Photo by photofriday / Shutterstock.com

ゴルフ界に突如登場した石川遼選手だが、見た目の爽やかさと、アグレッシブなプレースタイルで、瞬く間に国民的スターになった。 石川遼選手の生い立ちや実績などを紹介したいと思う。

日本代表にも選ばれたジュニア時代

石川遼選手は、1991年に埼玉県で生まれた。ゴルフとの出会いは6歳の時だった。と言っても、ゴルフばかりやっていたわけではない。小学校ではサッカークラブ、中学校では陸上部に所属していた。
ゴルフで注目されたのは2004年、小学校6年生の時だ。この年から開催が始まった全国小学校ゴルフ選手権横尾要カップで優勝する。
翌2005年は関東中学校ゴルフ選手権、全国中学校ゴルフ選手権大会優勝と着実に力をつけ、2007年にはチームジャパン・ジュニア代表としてナショナルチームにも選ばれた。

プロのトーナメントに高校生1年生で優勝

日本中のゴルフファンの目を釘付けにした事件は、石川選手が高校に進学してすぐの2007年5月に起こった。高校1年生になったばかりの少年が日本男子ツアーのマンシングウェアオープンKSBカップでまさかの優勝を果たしのだ。史上最年少の15歳と8ヶ月での快挙だった。
勝負を決めたのは最終ラウンド17番ショートホールのバンカーショットだった。4打差9位タイから出た最終ラウンドは、前半に3つスコアを伸ばし、10番、13番のバーディでトップに躍り出た。迎えた17番ショートホールのティーショットはバンカーへ。ピンまで30mもあるバンカーショットが残り、これまでかと思われたが、少し強めに打ち出されたボールはピンに当たりそのままカップインしてしまう。優勝を決めたバンカーショットだった。

最年少プロ、そして最年少賞金王に

2008年1月、石川選手はプロ宣言を行いプロゴルファーの仲間入りをする。16歳3ヶ月の史上最年少プロの誕生だった。
この時、石川選手との契約を巡って、ゴルフ道具メーカー間では凄まじい争奪戦が繰り広げられた。結局、アマチュア時代にクラブなどの提供で支援してもらったヨネックスと契約を交わす。今までの恩に報いた形での契約だった。
プロになった後も順調に成績を残し、2008年には2勝を挙げる。翌2009年にはミズノオープン、サン・クロレラクラシック、フジサンケイクラシック、東海クラシックと勝ち星を重ね、年間4勝で最年少賞金王に輝いた。

国内10勝を経てアメリカPGAツアーへ挑戦

2009年は海外へと目を向けた年にもなった。マスターズには特別推薦で出場、全英オープンにはミズノクラシックを勝ち抜いての出場で、共に予選落ちだったが、全米プロゴルフ選手権では4日間を戦い56位タイと結果を残した。また、この年行われたプレジデンツカップにキャプテン推薦され、世界選抜のメンバーとして出場している。
2009年末にはワールドランキングも30位まで上昇して、すべてのメジャー大会に出場できる権利を手に入れる。そして、2012年の三井住友VISA太平洋マスターズで最年少で国内10勝目を飾り、翌2013年からはアメリカPGAツアーに本格参戦をすることになる。

苦難が続くアメリカでの戦い

石川選手は、アメリカのツアーでも成績は残せるだろうと誰もが思っていたが、予想に反して苦戦する。2013年シーズンは22試合に出場して、予選落ちが10回と精彩がなく、マネーランキング149位と来季のシード権も取れない状態だった。
翌2014年シーズンは少し持ち直して、トップ5が1回、トップ10が3回でマネーランキング76位。2015年シーズンは117位だった。
しかし2016年シーズンは6試合に出場しただけで腰痛のため長期離脱を余儀なくされた。幸いにも公傷制度が適用され、2017年シーズンにも試合数限定ながら出場可能だ。これからが楽しみな石川選手に大いに期待したい。

まとめ

石川遼選手の生い立ちから現在までを紹介した。 国内で順調に優勝を重ねて世界へと挑戦するが、世界の壁に跳ね返された感がある。 しかし、長期離脱の原因となった腰痛も直して、戦う準備は整った。 今後は世界を圧倒するプレーを期待したい。