「スポーツ × AI × データ解析でスポーツの観方を変える」

平成26年 ソチ五輪で浅田真央が涙の名演技【平成スポーツハイライト】

2019 1/4 07:00SPAIA編集部
浅田真央,Ⓒゲッティイメージズ
このエントリーをはてなブックマークに追加

Ⓒゲッティイメージズ

バンクーバーは悔しい銀メダル

次々にヒロインが誕生する女子フィギュア界の中でも、特にファンから愛され、インパクトを残したのは浅田真央だろう。小学生の頃から「天才少女」と呼ばれ、平成17年(2005年)のグランプリファイナルでは日本代表選手として村主章枝以来2人目の優勝。しかし、「五輪前年の6月30日までに15歳」という制限に引っ掛かり、翌年のトリノオリンピックには出場できなかった。

そのトリノでは荒川静香がフィギュアで日本人初の金メダルに輝き、一躍フィギュアブームとなった。浅田は平成20年3月の世界選手権で初優勝。その年12月のグランプリファイナルではライバル・金妍兒の地元・韓国で2度のトリプルアクセルに成功し、2度目の優勝を飾った。いやが上にもバンクーバーオリンピックへの期待が高まった。

平成22年、浅田は初めてオリンピックのリンクに立った。しかし、SPでトップに立った金妍兒がフリーでも完璧な演技を見せたのに対し、SP2位だった浅田はフリーで3連続ジャンプを失敗。ライバルの後塵を拝して銀メダルに終わり、インタビューでは溢れる涙を抑え切れなかった。

6種類8回の3回転を成功

平成23年12月9日、最愛の母・匡子さんが肝硬変のため48歳で死去。グランプリファイナルに出場予定だった浅田はカナダから緊急帰国したものの最期を看取れず、無言の対面となった。幼い頃から二人三脚で歩んできた母を失い、悲しみに暮れた。

しかし、葬儀翌日から練習を再開した浅田は全日本選手権で優勝。その後、腰痛に悩まされるが、平成24年のグランプリファイナルで3度目の優勝を果たした。翌25年4月にはソチオリンピックのシーズン限りで引退する意向を表明し、ついに最後と決めた晴れ舞台を迎える。

26年2月、4年間の努力の成果を披露するはずのリンクは、浅田に厳しかった。女子シングルSPで転倒し16位。演技後は「何も分からない」と茫然自失だった。

翌日のフリー。浅田は意を決したようにリンクに立った。泣いても笑ってもこれが最後。自らを有名にし、自らを苦しめてきたジャンプを思い切り跳んだ。もう失うものはない。6種類8回の3回転ジャンプという女子では初めてのプログラムをノーミスで決めた。

演技を終え、天を仰ぐと涙があふれた。最終順位は6位。メダルには届かなかったが、浅田の演技に魅了された観衆の誰もが称賛の拍手を送った。

涙こらえ引退会見

3月に行われた世界選手権では3度目の優勝を飾り、引退か、現役続行か、揺れる胸中を「ハーフハーフ」と明かした。

一度は現役復帰し、世界選手権で7位入賞するなどしたが、平成29年4月、現役引退を表明。会見では報道陣に背を向けて涙をこらえ、「スケートは私の人生」と笑顔を見せた。平成を華麗に舞った浅田は、現役生活も着地も見事だった。