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時代を築いたエフゲニー・プルシェンコの功績とは

2016 10/19 19:05
プルシェンコ
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Photo by MediaPictures.pl / Shutterstock.com

時代を築いたロシアのエフゲニー・プルシェンコ。彼の功績を知りたいと思わないだろうか? 日本を代表する羽生結弦選手も尊敬しているプルシェンコの生い立ちや歩みを紹介する。

エフゲニー・プルシェンコの生い立ち

エフゲニー・プルシェンコは1982年11月3日に、ソビエト連邦のソルネチヌイで誕生する。両親の生まれ故郷であるヴォルゴグラードで、4歳からフィギュアスケートを始める。モスクワで行われたノービス競技会のクリスタルスケートで、年上の選手を相手に最年少(7歳)で優勝し、有力者だったコーチに認められ、サンクトペテルブルクへ移住する。
そして当時のソビエト連邦での複雑な社会背景のもと、プルシェンコ選手はオリンピックを目指して英才教育を受けた。

最年少記録をもつプルシェンコ

コーチであったアレクセイ・ミーシンの教え子たちは、プルシェンコの他にもリレハンメルオリンピックで金メダリストを獲った選手や、プルシェンコのライバルとなったアレクセイ・ヤグディンも所属している強豪チームだった。
そんな中、最初こそ目立たなかったプルシェンコだが、メキメキと実力を伸ばしていく。そして1996年に行われた世界ジュニア選手権では最年少で6位入賞し、翌年には史上最年少記録となる14歳で優勝した。

大活躍のプルシェンコ

1997年、プルシェンコは本格的にシニアの大会に参戦。欧州選手権を始めロシア杯やスケートアメリカでも健闘を重ね、1998年の世界選手権で3位に入り、当時の最年少メダリストとしての記録を打ち立てた。
そして、ここから輝かしいプルシェンコの活躍が始まる。1999-2000シーズンだけは世界選手権の優勝を期待されながらも4位と低迷したが、翌年の世界選手権では前回の屈辱を果たし見事に優勝、さまざまなタイトルも手に入れた。

ケガに悩まされるプルシェンコ

世界選手権の覇者となったプルシェンコ。翌年の2001-2002年シーズンもプルシェンコの勢いは止まらないと誰もが予想する中、グランプリファイルで同じロシアのアレクセイ・コンスタンティーノヴィチ・ヤグディン選手に敗北。危機感を感じたプルシェンコは、ソルトレイクシティオリンピックに向けて厳しい練習を行い新しいプログラムを完成させる。
オリンピックでは銀メダルを獲得したが、残念なことにその厳しい練習によって、右足首を負傷しケガに悩むこととなった。

ケガに負けないプルシェンコ

ケガが回復したプルシェンコは、2003年と2004年の世界選手権を連覇する。2006年にはまたもやケガに悩まされるが、トリノオリンピックでは不屈の精神力で金メダルを獲得。しかしその後も上位入賞を繰り返すが、常にケガとの戦いとなっていく。2014年にロシアで行われたソチオリンピックにも出場、団体戦では四大会連続となるメダルを獲得するが、個人戦ではジャンプの際に腰を痛めて棄権した。
現在も引退は表明しておらず選手としての歩みが続いているが、引退後は後輩の指導役としても活躍が期待されている。フィギュア界に残した彼の功績は大きく、ジャンプを中心とした構成は今のプログラムの主流となるきっかけにもなった。

まとめ

ケガにも負けずにジャンプや演技にかける姿勢は、羽生結弦選手だけでなく多くのファンを魅了する。そんなプルシェンコ選手の生い立ちや、フィギュア界に残した功績を紹介した。