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これぞ個性派、昭和ボクシングが生んだ名言集

2017 1/30 12:11
ボクシンググローブ,ⒸShutterstock
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Photo by Armen Khachatryan/Shutterstock.com

今よりも個性派のボクサーが多かった昭和の時代、人々はボクシングに熱狂しました。 そんなファンの心を熱くした昭和を代表するボクサーの名言を紹介します。

ボクサーと名言

ボクシングと名言は、実は切っても切り離すことはできません。それは、ボクシングが古の時代から続く人と人が拳で殴り合うという究極にシンプルなスポーツだからこそ、その奥はどこまでも深く、見る者の心を揺さぶるからです。そんな命をかけたやり取りをしている選手たちの言葉は、古今東西の名言としてボクシングファンの間では語り継がれています。
モハメド・アリのように饒舌なボクサー、ボクシングスタイルと同じく最低限の言葉で最高のパンチを繰り出す修行僧のようなハグラーなど、世界の名ボクサーの名言に勝るとも劣らない昭和のボクサーたちの名言集です。

「ワンヤ、カンムリワシニナイン」

沖縄県、八重山の方言で語られたこの言葉は「俺はカンムリワシになりたい」という意味。カンムリワシは日本では沖縄地方だけに生息する猛禽類です。
これは、石垣島という離島で決して裕福とは言えない家庭に育った昭和ボクシングを代表する選手、具志堅用高が昭和51年10月10日、世界タイトルを奪取した試合後に語った名言です。郷土への誇りと今まさに飛び立とうとする若きチャンプの高揚感が伝わってきますね。
彼の打ち立てた世界タイトル13度防衛の日本記録は、4団体制になった今も超える人はいません。

「俺はカンムリワシになりたい」

出典: 具志堅用高記念館

「沖縄から世界へ」

昭和56年、郷土沖縄の英雄、具志堅用高の壮絶なKO負けを見た夜、ボクシング経験のない高校生だった平仲伸明(後のリングネームは明信)は「具志堅の仇をとってやる」と心に誓いました。そしてボクシング経験者の知人に強引にボクシングを教えてくれと頼みこみ、その後はインターハイ優勝、オリンピック出場とトントン拍子でした。
そんな彼に東京のジムから巨額な契約金がオファーされましたが、彼は「沖縄から世界を狙ってみないか」と指導者に言われた通り、テレビ局やジムのコネに頼らず、自分の拳でチャンスを掴み、ベルトを巻きました。今、彼が経営する「平仲ボクシングスクールジム」のキャッチコピーは「沖縄から世界へ」という名言です。

「具志堅の仇をとってやる」

出典: ミドルエッジ

「単純なこと、簡単なことの積み重ねが己の力になるんだ」

この名言を言ったのは、「炎の男」こと昭和を代表するボクサーの一人、輪島功一です。
樺太で生まれ、北海道に移住した後は、厳しい気候の中、子どもの時からイカ漁など肉体労働で家計を支えてきました。これが基礎体力になったのか、上京後にきつい土木作業員の仕事につきましたが、それでも体力があり余っていた彼は、それを発散させようとボクシングジムの門を叩きました。
25歳という遅いデビューながら、3度の戴冠をした彼を支えたのが、どんなに簡単なことでもおろそかにしない練習だったのでしょう。

「単純なこと、簡単なことの積み重ねが己の力になるんだ」

出典: 毎日新聞

名ボクサーが名言を作る

最近は井上や井岡など、幼いころから親にボクシングを仕込まれ、幸せな家庭に育ったボクサーも多くいますが、昭和の時代、まだまだボクシングリングのカクテルライトには照らされない「陰」のような部分を背負った、貧困やどうしようもない現状を己の2つの拳で打ち破ろうとするようなボクサーが多くいました。
そんなもがき続けるボクサーだからこそ、名言を生んだのかもしれません。そんな彼らの言葉は、彼らのパンチと同じくらい重く、ファンの心を打ち抜いてきます。

まとめ

いかがでしたか?個性豊かな昭和の時代のボクサーの名言集でした。
2つの拳で殴り合うボクシング。試合を観るだけでなく、一人ひとりの選手のストーリーを知ると、よりドラマティックに彼らの言葉が響いてくると思いますよ。