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技術力でボクシング世界王者となった"精密機械"沼田義明とは

2017 1/30 21:11
拳@Shutterstock.com
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Photo by sportoakimirka/Shutterstock.com

ボクシングにおいて、パワーはもちろん大切だ。だがそれは強さの要素のひとつでしかない。 「精密機械」と呼ばれる正確な技術で世界を獲った沼田義明選手の功績を紹介する。

「精密機械」沼田義明とは

沼田義明は、1962年のデビュー以来「精密機械」と呼ばれる正確な技術を駆使して、1965年に世界チャンピオンとなった。 打たれながらも相手の隙を逃さず狙う我慢強いスタイルで、特に有名なのは、大逆転劇を見せた1970年のラウル・ロハスとの防衛戦だ。
引退後はテレビ朝日『エキサイトボクシング』の解説者などを経て、現在は自身がプロデュースする「沼田ジム」で後進を育てている。
元東洋太平洋Jライト級(現Sフェザー級)王者、元東洋太平洋ライト級王者、元世界Jライト級(現Sフェザー級)王者だ。

沼田義明のおいたち

北海道日高町(旧門別町)出身で、ボクシングを始めたきっかけはTBSの「東洋チャンピオンスカウト」と極東プロモーションが企画した「TBSボクシング教室」に参加していたことという異色の経歴。その後、1962年にプロデビューを果たした。

昭和42年6月。合格者の一人、沼田義明選手が比国の英雄フラッシュ・エロルデを破り、世界Sフェザー級王座を獲得。小高氏の英才教育は見事に花開く。最高の結果を得たボクシング教室は第2期生を募集。8月12日で締め切られた第2次ボクシング教室への応募者(15才?19才)は何と2万人。世のボクシングブーム、沼田選手の世界獲得が刺激になったのは間違いないが、2万人とは凄い。

出典: ボクシング・マスター

「55戦44勝」という実績

沼田選手はデビュー以来25連勝、生涯実績55戦44勝(12KO)8敗3分という戦績だ。これほどの戦績を残せたのは、軽いフットワークで相手を観察しつつチャンスを待つ、そして隙を突いて鋭い右のカウンターで仕留める「精密機械」のような技術があったからこそだ。
1965年、東洋ジュニアライト級(現スーパーフェザー級)王座獲得(防衛2)。1966年、東洋ライト級王座フラッシュ・エロルデ(フィリピン)に12回判定勝ち。1967年、WBA世界ジュニアライト級王座に初挑戦し、エロルデを15回判定で破り王座獲得。1967年、小林弘との史上初の日本人同士のタイトルマッチに破れるも、1970年、WBC世界ジュニアライト級王座に挑戦し、レネ・バリエントス(フィリピン)を下し2度目の王座を獲得(防衛3)。
その後、1971年のリカルド・アルレドンド(メキシコ)と戦った4度目の防衛に失敗。1972年に引退した。

「自分の距離で戦う」世界を獲った技術

沼田選手のスタイルが最大限発揮された試合は、1970年の対ラウル・ロハス戦だろう。序盤からロハスのペースでロープ際に追い込まれた5回、連打に疲れたロハスの隙を突いて反撃のカウンターを打ち返す。
その後、激しい打ち合いになり、再度ロープ際に追い詰められるも、再び疲れを見せたロハスに強烈な右アッパーを浴びせ、大逆転KO勝ち!試合中、打たれながらもロハスを見ていた冷静さとカウンターの技術に驚く。

沼田といえば「精密機械」に「右アッパー」。スピードとテクニックを駆使して、自分の距離で戦う時の沼田は強かった。最初に世界王者となったフラッシュ・エロルデ戦も、先にダウンこそ奪われたが、距離を制してからは10度も世界王座を防衛した名王者を翻弄(ほんろう)し完勝した。

出典: 時事ドットコムニュース

引退後は「ボクシングの楽しさを伝えたい」と自身のジムを開設

1971年に現役を引退した後は、テレビ朝日の『エキサイトボクシング』解説者として活躍した。
ボクシングブームが落ち着いてからは「もっとボクシングの魅力をいろいろな人に伝えたい」と自身のジムを開設し、後進の育成のほか、ボクササイズなど、それまでボクシングに興味のなかった層へ魅力を伝える活動を続けている。

当ジムは『体力づくり』『ストレス解消』『プロを目指す』など、老若男女だれでも、また親子でボクシングを楽しめるジムだ。各自の目的にあった指導を行っているので、安心して通える。

出典: 沼田ボクシングジム

まとめ

パワーだけでなく自分の距離にこだわり、相手をじっと観察する肝の据わった沼田選手の美学は、もしかすると新しいチャンピオンを生み出すかもしれない。 ボクシングの普及も含めて、今後も沼田選手から目が離せない。