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浪速のロッキー、赤井英和がボクシング界に残した功績

2016 10/24 19:31
ボクシング
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出典 Luigi.glp/Shutterstock.com

日本ボクシング史上最も個性的だったボクサーの一人、赤井英和。 人気先行と揶揄されることもあったが、そのカリスマ性と見ている者を一瞬で自分の世界に引き込んでしまう魅力は、多くのボクシングファンを生み出すことになった。 それこそが彼の一番の功績なのだ。

赤井英和、伝説のアマチュア時代

通天閣がすぐそこにそびえる大阪は西成区に生まれた赤井秀和は、大阪では知らない者がいない暴れん坊であり、当代随一の人気ボクサーとなる前から「喧嘩最強の男」としてその存在は有名だった。
浪速高校から近畿大学へと進み、オリンピックを目指すが、折り悪く日本はモスクワオリンピックをボイコット。ボクシングで五輪選手になるという夢を絶たれた赤井は、プロボクシングの道へと進むことになった。

デビューから破竹の連勝街道

赤井英和はプロ転向にあたり、愛寿ボクシングジム(現在のグリーンツダジム)の門を叩き、ジュニアウェルター級のプロボクサーとなる。
あれよあれよという間にKO勝利の山を築き、全日本新人王のタイトルも獲り、なんと12連続KO勝利。当時、同じく関西出身で追手門学院大学からボクシングの道に進んだ世界王者、渡辺二郎がいたにもかかわらず、赤井は関西一の人気ボクサーとなった。 派手なKOと攻撃型ボクシングの面白さもさることながら、そのカリスマ性とおもしろコメントでスターボクサーを作ることができると証明したのは、赤井の功績と言っていいだろう。

フェイクかフロックか?赤井人気とは

当時の赤井英和の攻撃的ボクシングスタイルは、言ってみれば「かっこいい」の一言。入場の花道に彼が現れた瞬間、ファンは熱狂し、また彼はそういうファンに応えるように会場の空気を一瞬で自分のものにしてしまうカリスマ性の持ち主だった。当時、ノンタイトル戦であっても、赤井の試合のある日は大阪の街はその話題でもちきりだったのだ。
しかし、コアなボクシングファンからは「赤井は強い選手とやっていない。ボクサーとしては大した功績はないじゃないか」「人気先行のタレントボクサーだ」と揶揄されていたことも事実だ。そんな赤井が本物を証明するチャンスが、世界タイトルへの挑戦だった。

世界初挑戦と敗戦

赤井英和に巡ってきたチャンスはWBCスーパーライト級チャンピオン、ブルース・カリーへの挑戦だった。しかし、結果は自分がKOを予告した7ラウンドに逆にTKO負け。すっかりやる気を失った赤井だが、グリーンツダジムはここで正式に赤井のために名トレーナー、エディ・タウンゼントを招聘する。
エディと二人三脚で次の世界戦のチャンスを待ち、ようやくそのチャンスが見えてきた1985年2月5日、赤井は運命のリングに上がることになる。ボクシングをやる者であれば、誰しもが夢見る世界チャンピオンのベルト。そこに再び手がかかろうとしていた。

エディの嘆き

大和田正春との一戦は「世界前哨戦」と見られていたが、この試合、赤井英和のモチベーションは上がらなかった。減量にも苦しみ、練習不足の重い体でリングに上がった赤井を見て、早い段階からエディは赤井の負けを予想。結果は7ラウンドKO負けの上、急性硬膜下血腫で救急搬送され、開頭手術を行って生死の境をさまようことになった。
この時、エディは、自分がもっと早くから面倒を見ていたら、と嘆いたのだそうだ。後に井岡弘樹を最後の弟子として見ることになった時、若い井岡と寝食を共にして徹底した生活管理を行い、世界チャンピオンにまで育て上げたのは、もしかしたら赤井の功績かもしれない。

まとめ

赤井は12連続KO勝利以外は輝かしい功績を作ることなくボクシング界を去り、人気タレントになったが、2012年に母校の近畿大学ボクシング部総監督に就任してまたボクシング界に戻ってきた。 波乱万丈の人生を送った「暴れん坊」が、この先どんなボクサーを育ててくれるのか、楽しみだ。