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中日ドラゴンズの優勝パレード・祝賀会の歴史

2016 9/20 12:42
野球
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Photo by David Lee/Shutterstock.com

中日ドラゴンズファンの方へ。今回は中日ドラゴンズにスポットをあてたいと思います。記憶に残る優勝パレードや祝賀会について5選紹介します。

1954年中日ドラゴンズ初めての優勝パレード!

1949年から中日ドラゴンズの監督に就任した天知俊一監督は、一度1952年に実績のない総監督に異動となりましたが、1954年に監督に復帰、その年に初優勝と日本一にチームを導きました。人情派監督として慕われていた天知監督は日本一が決まった時に涙が止まらず涙を拭いながらの胴上げとなりました。プロ選手の経験のない監督の球団が優勝した唯一の例だったと言われています。
優勝パレードでは名古屋市中区周辺で行われ、西鉄を完封した杉本投手を筆頭に沿道の声援に応える選手の笑顔に多くのドラゴンズファンが殺到しました。

巨人のV10を阻止し20年ぶりの優勝!盛大な優勝パレード!

1974年に巨人のV10を阻止しての20年ぶりの優勝を果たした中日ドラゴンズは、この年シーズン開幕から好調でした。立役者となったのは、星野仙一、松本幸行、マーチンで、一時は3位まで落ち込んだもののその後は首位阪神に1.5ゲーム差で追走。最終的に2位巨人とゲーム差0のきわどい優勝を果たしました。
その後の優勝パレードは盛大に行われたものの、同時刻には対巨人とのダブルヘッダー、それが長嶋茂雄監督の引退試合となったため、当時の新聞には長嶋茂雄監督の引退報道の方が大きく取り上げられたという事です。

中日ドラゴンズが魅せた!粘りの野球で優勝に導いた近藤監督

1981年から監督に就任した近藤貞雄。初年度は5位に終わってしまいましたが、翌1982年には優勝を獲得。この年はなかなか負けない粘りの野球を見せてくれました。そのため、勝利数は半分以下と少ないものの日本プロ野球記録の19引き分けを記録しています。
近藤監督は「投手分業制」による継投野球をきっちり確立し、星野や木俣等のベテランから小松辰雄、都裕次郎、牛島和彦、郭源治といった若手を起用した事で鉄壁の投手陣となりました。MVPを獲得した中尾孝義捕手の活躍もあり優勝に導きました。この年で星野仙一、木俣達彦が引退したため、最後の優勝パレードとなりました。

星野監督が導いた17年ぶりの優勝パレードは盛大に行われた!

開幕から日本タイ記録となる11連勝で始まった1999年の中日ドラゴンズは勢いが止まりませんでした。一度は阪神に首位の座を明け渡しましたが、すぐに奪還。7月には8連勝も記録し、そのまま後半戦へ。巨人に1.5ゲーム差まで詰め寄られましたが首位の座を明け渡す事なく優勝を獲得しました。
名古屋市内の中心部で行われた優勝パレードは、オープンカーやトラック18台に星野監督やコーチ、選手たちが乗り、ファンから声援や拍手が送られました。この時集まったファンの数は約16万人。11年前の優勝では昭和天皇が危篤状態だったため優勝パレードやビールかけは自粛されました。それから優勝パレードは17年ぶりとなったため、選手も目いっぱい楽しみたいとの思いで開催されました。

53年ぶりの日本一!優勝パレードには55万人ものファンが!

2007年、落合博満監督率いる中日ドラゴンズが53年ぶりに日本一に輝きました。2004年から中日ドラゴンズの監督に就任して1年目にリーグ優勝を果たしたものの日本シリーズでは敗退。その後2006年にもリーグ優勝、しかしまたも日本シリーズで敗退という結果に。その悔しさもあってか2007年、リーグでは2位でしたが、クライマックスシリーズを勝ち抜き日本シリーズに。そしてついに勝利し見事日本一を獲得しました。
優勝パレードではこの時を待ち望んでいたファン55万人が沿道を埋め尽くしました。名古屋市内中心部をファンの声援を受けながら落合監督はじめ、選手が笑顔で応えていました。

まとめ

中日ドラゴンズの初優勝した1954年から2007年までを振り返りましたが、いかがでしたでしょうか。
ファンの力に支えられながら優勝に導いた歴代監督から選手まで、ドラゴンズの歴史が見えてきますね。

以上「中日ドラゴンズの優勝パレード・祝賀会の歴史」でした。