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広島東洋カープの歴史とスポンサーにまつわるお話5つ

2016 9/16 20:29
野球
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Photo by T.Frazier/Shutterstock.com

長い歴史を持つプロ野球は各球団それぞれに様々な逸話があり、そして多くのスポンサーに支えられてきた。広島東洋カープファンならば知っておきたい球団の歴史やスポンサーにまつわるお話を紹介する。

広島東洋カープの前身「広島カープ」設立

1949年、プロ野球リーグ拡張の方針がきまり、広島の球団創設の動きが起こる。広島の新聞社や有力者が中心となって話は進み、9月25日には市民球団として「広島野球倶楽部」が設立、チーム名は広島の太田川が鯉の産地であること、原爆で焼け落ちた広島城が「鯉城」と呼ばれていたことなどから、鯉を意味する「広島カープ」という名称にしてリーグ参加を申請した。
そして11月28日に正式にリーグ参加の承認を受けた。これが広島東洋カープの前身となる。

広島東洋カープが「広島カープ」だったころ

設立から翌年の1950年にはチーム結成披露式を行い、ファン2万人を集めるという順調な出だしだったが、この年のリーグ戦は13連敗を喫するなど最下位に沈む。この後も成績の低迷と資金繰りに苦しむ。資金は広島県、広島市、呉市と地元のスポンサー企業である中国新聞社、日本専売公社、広島電鉄、東洋工業などによる出資や、後援会によって集められたが負債は膨らみ、他球団との合併が進められることもあった。
1955年には借金を帳消しにするため、「広島野球倶楽部」を倒産させて、「株式会社広島カープ」を設立するという手法でチームを存続させた。

「広島カープ」から「広島東洋カープ」へ

その後もチーム成績は低迷を続け、一時期のフィーバーも収束して観客数も減少傾向にあったこともあり、1967年、経営を安定させるために東洋工業株式会社(のちのマツダ株式会社)が「株式会社広島カープ」を全面買収して、当時の社長である松田恒次が球団オーナーとなる。
これに伴い球団名が「広島東洋カープ」へと変更され、それは現在でも続いている。東洋工業はその後も球団経営への介入は控え、スポンサーとしての立場を超えることをしなかったため、市民球団としてのイメージは維持されている。

メインスポンサー「マツダ株式会社」

1970年にはいると、山本浩二、衣笠祥雄といったスター選手が育ち始め、1975年に球団史上初となるリーグ優勝を果たす。それ以降は球団経営が安定し、球団とメインスポンサーである東洋工業(マツダ)とは良好な関係が現在まで続いている。
2009年に完成した新しい球場には「MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島」という名前が付けられ、ヘルメットやユニフォームのそでには「マツダ」のロゴが入り、球場のチケットにも「マツダ」の広告が入るなど、いろいろなところで「マツダ」の名を見ることができる。

マツダ以外にもたくさんのスポンサーが支えている

2016年現在、広島東洋カープはオフィシャルスポンサー7社、スポンサー117社がついて支えている。メインスポンサーのマツダをはじめ、RYOBI株式会社、アサヒビール株式会社、コカ・コーラ ウエスト株式会社、株式会社イズミ、株式会社セブン・イレブン・ジャパン、株式会社エディオンといった地元や西日本の有力企業が並ぶ。
ほかにも球団結成に尽力した株式会社中国新聞社や1950年代からスポンサーに付いているフマキラー株式会社(当時の社名は株式会社大下回春堂)などの名前もみられ、スポンサーと球団との関係が長く続いているのが見てとれる。

まとめ

市民球団として設立された広島東洋カープは当初は資金難から合併も検討されるような球団だった。
しかし、育成に力をいれるなどいろいろな工夫や努力をして、安定した経営を実現してきた。現在ではオフィシャル、非オフィシャルに関わらず多くのスポンサーに支えられ、良好な関係を保っている。