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捕手の代名詞とはならず? プロ野球における背番号37の選手たち

2023 7/16 06:00SPAIA編集部
ロッテの小野郁・広島の野間峻祥・阪神の及川雅貴,ⒸSPAIA
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2023年現役選手の背番号「37」

2023年各球団の背番号「37」は下記の選手が背負っている。

オリックス:石川亮捕手
ソフトバンク:生海(甲斐生海)外野手
西武:柘植世那捕手
楽天:不在
ロッテ:小野郁投手
日本ハム:江越大賀外野手

ヤクルト:エルビン・ロドリゲス投手
DeNA:楠本泰史外野手
阪神:及川雅貴投手
巨人:若林晃弘内野手
広島:野間峻祥外野手
中日:濱将乃介内野手

不在:1球団
永久欠番:0球団
投手:3球団
捕手:2球団
内野手:2球団
外野手:4球団

2023年に背番号「37」を背負っているのは外野手が4球団と最も多い。広島で緒方孝市前監督が背負っていた番号を受け継いだ野間峻祥や阪神からトレードで日本ハムへ移籍した江越大賀、DeNAの楠本泰史らが着用している。

投手では、最速158キロの剛速球を誇るリリーフ右腕・ロッテの小野郁と、貴重な左のセットアッパーとして活躍する阪神・及川雅貴が背負う。

少し前まで捕手も多かったが、現在は柘植世那(西武)と石川亮(オリックス)のみとなっている。また、今季から変更となったのは3球団。ソフトバンクではドラフト3位ルーキー・生海(甲斐生海)、ヤクルトは新外国人投手のエルビン・ロドリゲス、中日はドラフト5位ルーキーの濱将乃介が背負っている。

日本では永久欠番にしている球団はないが、メジャーリーグでは監督としてケーシー・ステンゲル氏が2球団において永久欠番となっている。

そんな背番号「37」を着用していた日米の名選手や特徴的な球団の系譜を、次章以降で紹介していく。

選手会会長を務めた嶋基宏

長らく楽天の正捕手として活躍した嶋基宏は、2006年大学生・社会人ドラフト3巡目で国学院大から入団し、1年目からレギュラーとして活躍。野村克也監督から怒られながらリード、配球を研究し、リーグ屈指の捕手へと成長した。試合中に野村監督の横に立ちながら説教を受けるシーンは、度々テレビでも流れた。

成長を遂げた嶋は侍ジャパン日本代表にも選出。第4回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)でも、直前まで候補選手だったが、故障によって離脱したためWBCには出場できなかった。

2011年の東日本大震災後のスピーチでは「見せましょう、野球の底力を」という名言を残し、多くの人々の心を打った。中京大中京高、国学院大で主将、2012年から2017年までプロ野球選手会会長も務めた。嶋は入団以来背番号「37」を背負っていたが、ヤクルト移籍後は「45」に変更。2022年限りで現役を引退し、現在はヤクルトのバッテリーコーチ兼作戦補佐を務めている。

緒方孝市元監督の現役時代は「37」がルーツ

2015年から2019年まで5年間、広島の指揮を執った緒方孝市元監督は、1986年ドラフト3位で広島に入団し、背番号「37」で現役生活をスタートさせた。

高卒ということもあり当初は出番が少なかったが、5年目の1991年に102試合に出場すると、その後も出場機会を確保。1995年には101試合に出場し、規定打席には到達できなかったものの、47盗塁をマークし盗塁王に輝いた。この活躍があり、同年オフに背番号「37」から「9」に変更した。

緒方はケガが多かったものの、2009年まで23年間にわたって現役生活を続け、1506安打、268盗塁をマーク。広島におけるスター選手のひとりとして活躍した。

引退後(晩年は選手兼任)もコーチとしてチームに残り、2015年から監督就任すると2016年の25年ぶりリーグ優勝から3連覇。2試合連続サヨナラ本塁打を放った鈴木誠也を「神ってる」と表現して新語・流行語大賞に選ばれ、全国に「カープ女子」が出現するなど、明るい話題を提供した。

「ミスターファイターズ」田中幸雄

日本ハム一筋22年、通算2012安打を放った田中幸雄は、清原和博や桑田真澄らで沸いた1985年のドラフト会議で3位指名を受けてプロ入りした。

最初に与えられた背番号は「37」。高卒1年目は14試合の出場にとどまるが、2年目となる1987年には112試合に出場。1988年からは4年連続全試合出場を果たし、レギュラーに定着した。キャリア序盤である1986年から1990年までを背番号「37」で過ごし、その後「6」に変更している。

日本ハムを代表する選手として、北海道移転後の2007年まで現役を続けた田中。現役最終年には2000安打も達成し、名球会入りを果たした。打撃タイトルは1995年の打点王1度のみだったが、「ミスターファイターズ」としてファンに愛された。

入団当初の1986年から1989年までの4年間は、同姓同名の田中幸雄投手がいたこともあり、表記は田中雄となっていた。また、田中幸雄投手が190センチと大柄で「オオユキ」と呼ばれていたのに対し、184センチの田中幸雄内野手は「コユキ」と呼ばれることもあった。

退団後もコーチとして日本ハムを支え、2015年から2017年まで二軍監督を務めた。

ヤンキースで世界一を7度達成したケーシー・ステンゲル

1950年代にニューヨークヤンキースで指揮を執り、一時代を築いたケーシー・ステンゲル監督は、10度のリーグ優勝、7度のワールドチャンピオンに輝くなど大きな実績を残した。

MLBの監督としてブルックリンドジャース、ボストンブレーブス、ヤンキース、ニューヨークメッツの4球団で采配。メッツとヤンキースで背負った背番号「37」が両球団で永久欠番に制定されている。

名采配も数多く見せたが、「ステンゲル語録」と呼ばれるほど多くの名言(迷言)を残したことでも有名だ。常勝チームのヤンキースを率いた後に指揮を執ったメッツでは、新設チームということもあってチーム力が低く、就任1年目の1962年は40勝120敗1分。チーム史上唯一となる勝率3割未満に陥るなど好成績を残すことはできず、「メッツの試合よりひどいのは、メッツのダブルヘッダーだけ」と自虐的なネタでチーム状況を嘆いた。

メッツでは1965年途中まで采配を振るい退団。翌1966年にアメリカ野球殿堂入りを果たしている。

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