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プロ野球における背番号33の名選手たち

2017 12/23 12:24cut
野球,バット
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広島の主砲から巨人の主砲へ!江藤智選手

広島東洋カープで、主砲として2度の本塁打王を獲得した江藤智選手。1988年ドラフト5位で関東高校から広島へ入団し、当時は内野手ではなく捕手としてプレーしていた。
高卒ということもあり、1年目は一軍での出場機会はなかった。しかし二軍で活躍し始めたオフには、背番号が「51」から「33」へと変更になる。

1991年に捕手から内野手へ転向すると出場試合数を増やし、1993年にはレギュラーに定着。34本塁打を放ち自身初の打撃タイトルを獲得する。1995年には39本塁打、106打点で二冠に輝くなどリーグ屈指の強打者へと成長した。
当時の広島打線は金本知憲選手(現・阪神監督)、緒方孝市選手(現・広島監督)、野村謙二郎選手(前・広島監督)と多くの名選手が名を連ねていた。そのなかで、江藤選手は主軸を張っていたのである。

その、江藤選手の転機は1999年オフだ。FA権を行使し、巨人への移籍を果たしたのだった。
この際に巨人は江藤選手へのラブコールのひとつとして、長嶋茂雄監督が背負っている背番号「33」を提示。長嶋監督は「33番を江藤君に譲って3番をつける」との発言をしている。これらの言葉も移籍を決める一つの要因となり巨人に移籍し、6年間にわたり在籍した。
晩年は西武ライオンズでプレーし、2009年に現役を引退。最後にプレーした西武でも背番号「33」を背負っていた。

通算防御率1.99は歴代第4位!若林忠志選手

戦前から戦後初期にかけて大阪タイガース(現・阪神タイガース)、毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)で活躍した若林忠志選手。通算237勝をあげている名選手だ。大阪時代の1939年に28勝を挙げると、1944年までの6年で5度の20勝以上を達成。
1944年には22勝4敗、防御率1.56の成績を残し最多勝、最優秀防御率、最高勝率のタイトルを獲得している。太平洋戦争を挟み1949年まで大阪でプレーする。

1950年にセ・パ2リーグ制になるとパリーグの毎日オリオンズへと移籍。往年の力は無く、3年間でわずか4勝に終わっている。この毎日時代に背負った背番号が「33」だった。

16年間の現役生活で237勝144敗、防御率1.99の記録を残している若林選手。なかでも防御率1.99は歴代第4位となっており、プロ野球史上4人しか存在しない通算防御率1点台の選手でもある。(2000投球回以上)

1965年に胃がんで亡くなった際にはプロ野球葬が行われている。

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