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長嶋茂雄、江藤智ら強打の内野手のイメージは今や昔? プロ野球における背番号33の選手たち

2023 7/3 06:00SPAIA編集部
ヤクルトの内山壮真、広島の菊池涼介、楽天の銀次,ⒸSPAIA
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2023年現役選手の背番号「33」

背番号「33」を背負っていた印象的な人物と言えば、長嶋茂雄監督だろう。現役時代の「3」を2つ重ねた「33」を第2次長嶋体制時に着用した。

2023年各球団の背番号「33」は下記の選手が背負っている。

オリックス:杉澤龍外野手
ロッテ:八木彬投手
楽天:銀次内野手
ソフトバンク:増田珠内野手
日本ハム:立野和明投手
西武:古川雄大外野手

ヤクルト:内山壮真捕手
阪神:糸原健斗内野手
巨人:タイラー・ビーディ投手
広島:菊池涼介内野手
中日:祖父江大輔投手
DeNA:粟飯原龍之介内野手

不在:0球団
永久欠番:0球団
投手:4球団
捕手:1球団
内野手:5球団
外野手:2球団

内野手の番号として使用されることが多い背番号「33」。2023年も菊池涼介(広島)や銀次(楽天)、糸原健斗(阪神)らヒットメーカーが背負うなど5球団で内野手が着用している。

ただ、近年は内野手以外も増えている。強打の捕手として将来を嘱望されているヤクルトの内山壮真に、2022年ドラフトで入団したオリックスの杉澤龍と西武の古川雄大はともに外野手だ。

巨人では2022年オフに育成契約へ変更となった太田龍に代わって、新外国人のビーディが付けており、投手の着用が続いている。投手、捕手、外野手、外国人も背負っており、特定のイメージはないと言えるだろう。

そんな背番号「33」を着用していた歴代の名選手や特徴的な球団の系譜を、次章以降で紹介していく。

2度目の監督で背番号「33」を背負った長嶋茂雄監督

1992年オフに長嶋茂雄氏が2度目の監督に就任した際に選んだのが「33」だった。現役時代の「3」を2つ重ねてこの番号を選んだ。

第2次長嶋政権において長嶋監督が初めて参加した1992年ドラフト会議では、4球団競合だった星稜高校の松井秀喜を抽選で引き当てている。当たりくじを確認した瞬間に満面の笑みを浮かべ、サムアップしたシーンは有名だ。

就任4年目となった1996年も印象的だった。巨人は7月上旬の時点で、首位の広島に11.5ゲーム差をつけられていた。しかし、ここから驚異的な追い上げを見せ、逆転でリーグ優勝。「メークドラマ」と長嶋監督は呼び、新語・流行語大賞にも選ばれた。

1999年まで7シーズンを背番号「33」で戦い、リーグ優勝2回、日本一1回の成績を残す。当時は現役時代からONに闘志を燃やした野村克也監督率いるヤクルトと毎シーズンのように首位を争った。野村監督はデータを中心とした「ID野球」を提唱。長嶋監督の野球を「勘ピューター」と皮肉り、「長嶋巨人vs野村ヤクルト」は常に注目を集めていた。

第2次長嶋監督時代は1993年から2001年まで続いたが、背番号「33」は1999年までの着用となっている。広島からFAで加入した江藤智に譲り、2000年から2シーズンは現役時代の「3」を背負った。

江藤智、広島の主砲から巨人の主砲へ

広島で主砲として2度の本塁打王を獲得した江藤智。1988年ドラフト5位で関東高校から広島へ入団し、当時は内野手ではなく捕手としてプレーしていた。1年目は一軍での出場機会はなかったが、二軍での活躍もあり、同年オフには背番号「51」から「33」に変更した。

1991年に捕手から内野手へ転向すると出場試合数を増やし、1993年にはレギュラーに定着。34本塁打を放ち自身初の打撃タイトルを獲得した。さらに1995年には39本塁打、106打点で二冠王に輝くなどリーグ屈指の強打者に成長した。

当時の広島打線は金本知憲、緒方孝市、野村謙二郎と多くの名選手がいたが、その中で江藤は主軸を張っていた。

江藤の転機は1999年オフ。FA権を行使し、巨人への移籍を決めた。この時、巨人は江藤へのラブコールのひとつとして、長嶋茂雄監督が背負っている背番号「33」を提示。長嶋監督は「33番を江藤君に譲って3番をつける」とラブコールを送った。これらの言葉も移籍を決める一つの要因となり移籍を決断。巨人には6年間在籍した。

FAで加入した豊田清の人的補償で2006年から西武に移籍し、2009年に現役を引退。最後にプレーした西武でも「33」を背負った。

通算防御率1.99は歴代4位の若林忠志

戦前から戦後にかけて大阪タイガース(現阪神)、毎日オリオンズ(現ロッテ)で活躍した若林忠志は、通算237勝を挙げた名投手だ。

大阪時代の1939年に28勝を挙げると、1944年までの6年で5度の20勝以上をマーク。1944年には22勝4敗、防御率1.56の成績で最多勝、最優秀防御率、最高勝率に輝いている。太平洋戦争を挟み1949年まで大阪でプレーした。

1950年に2リーグ制に分立すると、パ・リーグの毎日に移籍。往年の力はなく、4年間でわずか4勝に終わっている。この毎日時代に背負った背番号が「33」だった。

16年間の現役生活で237勝144敗、防御率1.99の記録を残している若林。防御率1.99は2000投球回以上の投手で歴代4位、プロ野球史上4人しか存在しない通算防御率1点台の選手でもある。1965年に胃がんで亡くなった際にはプロ野球葬が行われた。

選手時代は背番号がなかったホーナス・ワグナー

メジャーリーグにおけるレジェンドのひとりでもあるホーナス・ワグナー。ワグナーのトレーディングカードは希少価値が高く、保存状態のよいものは1枚2億円以上で取引されることもあったほどだ。

元々はたばこの“おまけ”として配布されたワグナーのカードだったが、カード欲しさゆえに子供がタバコを買うことをワグナー自身が快く思っていなかった。そのためカードを回収させた結果、当時市場に出回っていたカードが極端に少なくなり、希少価値を高めることになった。

プレーヤーとしてのワグナーは、21年間の現役生活で通算3420安打を記録。首位打者を8度獲得するなどピッツバーグ・パイレーツの中心選手だった。

パイレーツでは、ワグナーの背番号「33」が永久欠番となっている。しかし、ワグナーの活躍した1900年代初頭に背番号をつける習慣がなかったため、現役時代はこの番号を背負っていない。「33」は現役引退後に打撃コーチとして背負った番号だった。

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