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ドラフト入団拒否の歴史を振り返る

2017 11/10 12:24cut
baseball player
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ドラフト開始当時は多発した入団拒否

戦力の均衡を目的として1965年にはじまったドラフト会議。その開始直後は現在と違い、多くの指名を受けたものの入団拒否をする選手は多かった。

2016年ドラフト会議では、履正社高校の山口裕次郎選手が北海道日本ハムファイターズの6位指名を拒否。社会人野球へと進んだことが話題となったが、その他の選手は全員プロ入りを果たしている。
このように、近年は指名を受けた場合ほぼ入団に至るのが普通となっている。その背景には、選手の希望などを事前にスカウトが調査し、あまりにも希望が強い場合は指名を行わないなど各球団によってリスク回避を行っているからだ。

今後も1年で5人、10人と入団拒否がでることはなさそうである。

後のスター選手も経験している入団拒否

ドラフトの歴史を紐解くと多くの選手が入団拒否を行っている。名球会入りを果たしている選手でも入団拒否は多い。
平松政次選手(1965年中日4位拒否)、谷沢健一選手(1965年阪急4位拒否)、山田久志選手(1967年西鉄11位拒否)、門田博光選手(1968年阪急12位拒否)らが有名なところだ。また、現役選手では福留孝介選手(1995年近鉄1位)が入団拒否を行っている。

プロ野球史上最多の入団拒否は、4回となっており藤沢公也選手が記録保持者だ。
1969年(ロッテ3位)、1971年(ヤクルト11位)、1973年(近鉄4位)、1976年(日本ハム2位)と4回の指名を拒否し、1977年の中日1位指名でようやく入団を果たすことになる。今後、この記録が破られることはないだろう。

入団拒否をしたがアマチュア球界の指導者として活躍した人物もいる。1975年ドラフトで阪神から2位指名を受けた松下電器の鍛治舎巧選手だ。
鍛治舎選手は阪神の指名を拒否し松下電器に残留。その後、アマチュア日本代表のコーチ、ボーイズリーグのオール枚方ボーイズの監督として成果を挙げている。
また、秀岳館高校の監督を2017年夏の甲子園まで3年間務め甲子園ベスト4の実績を残した。入団拒否を行いプロ入りをしなかったが、大きく花開いた成功例と言えるだろう。

大騒動となった「空白の一日」

高校野球で大物選手が登場すると、新聞や雑誌などのメディアでは「怪物」と形容されることが多い。その元祖となったのが作新学院高校の江川卓選手だ。
江川選手は作新学院高校時代に甲子園、そして地方大会などで剛速球を武器とし多くの三振を奪っていた。その噂は全国的に広がっており、ドラフトでも注目の的となっていた。

江川選手が高校3年時の1973年ドラフト会議では、阪急ブレーブスが1位で指名。しかし、進学志望だった江川選手は入団拒否を行い法政大学へと進むことになる。この入団拒否は大きな話題となることはなかった。

法政大学へ進学後も高校時代と変わらぬ活躍を見せた江川選手。
1977年のドラフト会議ではクラウンライター・ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)から2度目の指名を受ける。しかし、本拠地が福岡だったことで江川選手は入団を拒否することになる。法政大学を卒業後は、南カリフォルニア大学へと野球留学。1978年のドラフトを目指すことになった。

翌1978年ドラフト会議の前々日に江川選手は急遽帰国。ドラフト会議前日に巨人とプロ入りの契約を結んだのだ。
これはドラフト指名における交渉権が、ドラフト前々日までという盲点をついたのである。これが、いわゆる「空白の一日」だ。空白となっていたドラフト前日は、どこの球団とも契約が可能と解釈したのである。

しかし、この契約は無効とされ江川選手はドラフトで阪神が指名。その後、巨人へトレードされた。これほどまでに入団拒否から大騒動に発展したのは江川選手だけだ。

日本ハムが菅野智之選手に入札した2011年

近年のドラフト会議において、指名拒否がもっとも話題になったのは2011年のことだろう。東海大学の菅野智之選手が北海道日本ハムファイターズの1位指名を拒否し浪人を選択したのだ。

この年のドラフト会議は野村祐輔選手(明治大→広島)、藤岡貴裕選手(東洋大→ロッテ)とともに菅野選手は『大学ビッグ3』と呼ばれていた。しかし、菅野選手は当時の巨人監督である原辰徳氏の甥っ子ということで単独指名が大方の予想だった。
迎えたドラフトでは10球団の1位入札が終わり、11球団目である巨人が菅野選手を指名。ここまでは予想通りだった。しかし、最後である日本ハムが大方の予想を覆して菅野選手へ入札を行ったのだ。

菅野選手の名前がコールされ、モニターに名前が映されると(巨人首脳陣の座るテーブルを除き)会場は大いに盛り上がった。日本ハム(津田敏一球団社長)、巨人(清武英利GM)による一騎打ちとなった抽選では津田球団社長が当たりくじを引く。その瞬間、さらに会場は盛り上がりテレビでもわかるほどの歓声が鳴り響いた。

しかし、日本ハムは菅野選手の交渉権を獲得したものの、入団合意には至らず。菅野選手は浪人し翌2012年のドラフトで巨人が1位指名を行い、プロ入りを果たしている。

3度目の正直で巨人入りを果たした長野久義選手

近年では複数回に渡って入団拒否を行うことは珍しい。各球団ともに選手の動向をチェックしており、特に上位指名選手は入団拒否をされそうな場合、指名を回避するからだ。しかし、巨人入りを熱望し2度の入団拒否を行ったのが長野久義選手である。

1度目にドラフト指名を受けたのは2006年のことだった。北海道日本ハムファイターズから4位指名を受けたものの、入団を拒否。2年後のドラフトで巨人から指名を受けることを目標に社会人野球のHondaへ入部する。当時の長野選手は大学日本代表入りを果たしていたものの、ドラフト1位クラスではなく大きな話題とはならなかった。

1度目の入団拒否から2年経過した2008年ドラフト会議。長野選手は2年前から意思は変わらず、巨人志望を公言していた。しかし、長野選手の夢は叶わず、巨人より早く千葉ロッテマリーンズが2巡目で指名する。長野選手は入団拒否の姿勢を貫き、Hondaに残留。翌2009年のドラフトを待つことになる。

迎えた2009年のドラフト会議では、巨人が無事に長野選手を1位指名を受け入団。3度目の正直で巨人入りを果たしたのだった。
長野選手は1年目からレギュラーを勝ち取り、2年目には首位打者を獲得する活躍。ドラフト指名を2度拒否し巨人入りを熱望した想いを成績で表した格好だ。今後、長野選手のように複数回入団を拒否する選手が現れることはあるのだろうか。注目が集まる。