「スポーツ × AI × データ解析でスポーツの観方を変える」

ドラフト入団拒否の歴史を振り返る

2017 11/10 12:24cut
baseball player
このエントリーをはてなブックマークに追加

大騒動となった「空白の一日」

高校野球で大物選手が登場すると、新聞や雑誌などのメディアでは「怪物」と形容されることが多い。その元祖となったのが作新学院高校の江川卓選手だ。
江川選手は作新学院高校時代に甲子園、そして地方大会などで剛速球を武器とし多くの三振を奪っていた。その噂は全国的に広がっており、ドラフトでも注目の的となっていた。

江川選手が高校3年時の1973年ドラフト会議では、阪急ブレーブスが1位で指名。しかし、進学志望だった江川選手は入団拒否を行い法政大学へと進むことになる。この入団拒否は大きな話題となることはなかった。

法政大学へ進学後も高校時代と変わらぬ活躍を見せた江川選手。
1977年のドラフト会議ではクラウンライター・ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)から2度目の指名を受ける。しかし、本拠地が福岡だったことで江川選手は入団を拒否することになる。法政大学を卒業後は、南カリフォルニア大学へと野球留学。1978年のドラフトを目指すことになった。

翌1978年ドラフト会議の前々日に江川選手は急遽帰国。ドラフト会議前日に巨人とプロ入りの契約を結んだのだ。
これはドラフト指名における交渉権が、ドラフト前々日までという盲点をついたのである。これが、いわゆる「空白の一日」だ。空白となっていたドラフト前日は、どこの球団とも契約が可能と解釈したのである。

しかし、この契約は無効とされ江川選手はドラフトで阪神が指名。その後、巨人へトレードされた。これほどまでに入団拒否から大騒動に発展したのは江川選手だけだ。

日本ハムが菅野智之選手に入札した2011年

近年のドラフト会議において、指名拒否がもっとも話題になったのは2011年のことだろう。東海大学の菅野智之選手が北海道日本ハムファイターズの1位指名を拒否し浪人を選択したのだ。

この年のドラフト会議は野村祐輔選手(明治大→広島)、藤岡貴裕選手(東洋大→ロッテ)とともに菅野選手は『大学ビッグ3』と呼ばれていた。しかし、菅野選手は当時の巨人監督である原辰徳氏の甥っ子ということで単独指名が大方の予想だった。
迎えたドラフトでは10球団の1位入札が終わり、11球団目である巨人が菅野選手を指名。ここまでは予想通りだった。しかし、最後である日本ハムが大方の予想を覆して菅野選手へ入札を行ったのだ。

菅野選手の名前がコールされ、モニターに名前が映されると(巨人首脳陣の座るテーブルを除き)会場は大いに盛り上がった。日本ハム(津田敏一球団社長)、巨人(清武英利GM)による一騎打ちとなった抽選では津田球団社長が当たりくじを引く。その瞬間、さらに会場は盛り上がりテレビでもわかるほどの歓声が鳴り響いた。

しかし、日本ハムは菅野選手の交渉権を獲得したものの、入団合意には至らず。菅野選手は浪人し翌2012年のドラフトで巨人が1位指名を行い、プロ入りを果たしている。

おすすめの記事