「スポーツ × AI × データ解析でスポーツの観方を変える」

監督の代名詞から投手ナンバーへ プロ野球における背番号30の選手たち

2023 6/19 11:00SPAIA編集部
ロッテの廣畑敦也、DeNAの三浦銀二、西武のマキノン ,ⒸSPAIA
このエントリーをはてなブックマークに追加

ⒸSPAIA

2023年現役選手の背番号「30」

背番号「30」はプロ野球が始まった当時、監督の番号として使用されていた。2023年各球団の背番号「30」は下記の選手が背負っている。

オリックス:廣岡大志内野手
ソフトバンク:佐藤直樹外野手
西武:デビッド・マキノン内野手
楽天:平良竜哉内野手
ロッテ:廣畑敦也投手
日本ハム:宇佐見真吾捕手

ヤクルト:西田明央捕手
DeNA:三浦銀二投手
阪神:門別啓人投手
巨人:鍵谷陽平投手
広島:一岡竜司投手
中日:三好大倫外野手

不在:0球団
永久欠番:0球団
投手:5球団
捕手:2球団
内野手:3球団
外野手:2球団

古くは監督の背番号として使用されていたが、現在は投手が多くなっており、2023年はDeNAの三浦銀二やロッテの廣畑敦也ら5球団で投手が背負っている。

巨人ではかつて“怪物”江川卓がつけていた「30」。以降は投手が代々受け継いでおり、2020年から鍵谷陽平が背負っている。阪神でも近年は久保田智之ら投手が着用しており、今季からはドラフト2位ルーキーの門別啓人が継承している。

2023年に変更となったのは阪神以外にも3球団。阪急時代に上田利治監督が長年付けていたオリックスではトレードで加入した廣岡大志が背負い、西武では新助っ人のマキノン、楽天はドラフト4位ルーキーの平良竜哉と、内野手の着用も増えている。

そんな背番号「30」を着用していた歴代の名選手や特徴的な球団の系譜を、次章以降で紹介していく。

【関連記事】
「プロ野球の移籍選手は背番号30が最多説」を検証する

巨人の監督が受け継いだ背番号30

東京六大学野球をはじめとした大学野球チームの多くは、監督の背番号を「30」としている。これは背番号を「30」までしか着用できない時代があり、監督が最も大きい番号をつけていたことに由来すると言われている。その影響もあり、プロ野球でも背番号「30」を背負う監督は多かった。

巨人は1936年の初代「30」である浅沼誉夫監督にはじまり、1939年から1942年まで藤本定義監督、その後、中島治康選手兼任監督が着用した。

三原脩監督が指揮を執った1947年途中から1949年にかけては、背番号「30」を中島治康がそのまま使用していた。三原監督の就任に伴い、中島治康が監督兼任を外れ選手専任となったため、監督の番号ではなくなったのだ。このとき、三原監督は背番号「31」だった。

その後、巨人の黄金時代を築いた水原茂監督が、1950年から1960年の11年間にわたり背番号「30」を背負っている。その間に8度のリーグ優勝、4度の日本一に輝いた。

巨人において、11年間にわたり背番号「30」を背負ったのは、1987年ドラフト1位でPL学園から入団した橋本清と並んで最長タイ。水原監督の退任後は、背番号「30」をつけた監督はいない。

掛布雅之との「ライバル物語」江川卓

巨人の選手において、背番号「30」の代表格といえば江川卓だろう。法政大学卒業時の1977年ドラフト会議で、クラウンライターから1位指名を受けたが入団を拒否。翌1978年ドラフト会議前日に、巨人と電撃契約するという「空白の一日事件」で世間を騒がせた。

しかし、入団は認められず、巨人はドラフトをボイコット。4球団が1位指名した結果、阪神が江川の交渉権を獲得した。その後、江川は阪神に一度入団し、小林繁との交換トレードという形で巨人入りを果たすことになる。その際に与えられた背番号が「30」だった。

江川は1年目こそ9勝10敗と負け越したが、2年目に16勝を挙げ最多勝。ここから引退する1987年まで8年連続で二桁勝利を達成するなど、リーグを代表する投手となった。

また、同学年にあたる「ミスタータイガース」こと阪神・掛布雅之とは、毎年のように名勝負を繰り広げた。初対決では、高卒でプロ入りを果たしている掛布がプロの先輩としての意地を見せて本塁打。これが名勝負物語の始まりとなった。

その後も掛布とは、巨人のエースと阪神の4番という立場で幾度となく対戦。江川の引退年である1987年の最後の対戦では、掛布から三振を奪いライバル物語の幕は閉じた。江川は掛布に14本塁打を浴びたものの、21個の三振を奪っている。掛布も江川の後を追うように、翌1988年に現役を引退した。

江川の引退以降、翌年からは橋本清が「30」を受け継ぎ、林昌範、西村健太朗、宮國椋丞、鍵谷陽平ら投手が背負っている。

通算1773勝・鶴岡一人監督

巨人以外の球団でも、背番号「30」は監督が着用していた。ソフトバンクの前身球団である南海は、1938年から1965年まで一貫して背番号「30」は監督の番号だった(1947年~1952年までは山本一人選手兼任監督)。

中でも1947年に山本一人選手兼任監督(1959年に鶴岡一人に改姓)が「1」から「30」へ変更すると、1965年まで19年間着用している。背番号「30」を着用していなかったシーズンも含め、23年間にわたる監督生活で積み上げた白星は1773で、これは日本プロ野球史上最多勝利数となっている。また、勝率.609は歴代トップの数字となっており、長く監督を務めただけではないことがわかる。

鶴岡監督退任以降、1979年まで空き番号となっていた背番号「30」だが、1980年に高英傑がつけると、その後は一度も空き番号となることなく、2012年からはドラフト1位で入団した武田翔太が使用。市川友也を経て、2020年から佐藤直樹が背負っている。

「ライアン・エクスプレス」ことノーラン・ライアン

「ライアン・エクスプレス」と呼ばれ、メジャーリーグ記録となっている5714奪三振をマークしたノーラン・ライアン。アストロズ、レンジャーズ時代の背番号「34」が有名だが、メッツ、エンゼルス時代は背番号「30」を背負っていた。

1966年のメジャーデビューから1971年までのメッツ時代には、大きな実績がなかったライアン。1972年にエンゼルスへ移籍すると、19勝をマークし、初めてオールスターゲームにも出場。1979年まで8年間所属して毎年二桁勝利を挙げた。

ライアンは1993年に現役を引退したが、引退前年の1992年にエンゼルスで「30」が永久欠番となった。その後アストロズ、レンジャーズで背負った背番号「34」も永久欠番となる。ライアンは史上初めて3球団で永久欠番となった選手でもあった。

【関連記事】
三浦大輔、森本稀哲、秋山拓巳ら巣立った出世ナンバー プロ野球における背番号46の選手たち
村田兆治、与田剛らが背負った剛腕の系譜 プロ野球における背番号29の選手たち
巨人では左腕の系譜、ツインズの永久欠番 プロ野球における背番号28の選手たち