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【1970年代後半を振り返る】ドラフト下位指名からのブレイクは?

2017 10/13 10:05cut
野球
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1975年:ロッテの監督を務めた山本功児選手が入団

1975年のドラフト会議では後に名球会入りを果たす、北別府学選手が広島東洋カープから1位指名を受け入団に至っている。その他の上位指名では銚子商業高校の篠塚利夫選手(巨人1位)、高知高校の杉村繁選手(ヤクルト1位)らがプロ入りを果たした。
杉村選手は選手として大きな実績を残していないが、指導者として内川聖一選手(ソフトバンク)、山田哲人選手(ヤクルト)らを一流選手に育て上げている。
また、秀岳館高校を3季連続甲子園ベスト4の偉業を達成した鍛治舎巧監督もこの年、阪神タイガースから2位指名を受けている。しかし、プロ入りはせずに社会人野球の松下電器でプレーを続行した。

この年、ドラフト下位からブレイクを果たした選手の筆頭格は山本功児選手(巨人5位)だろう。山本選手は読売ジャイアンツ、ロッテオリオンズの2球団で活躍。現役引退後はロッテの監督も務めている。
また、プロ野球番組の定番である「珍プレー好プレー」にぴて山本選手が大きく取り上げられるシーンがある。中日ドラゴンズの宇野勝選手が打球をヘディングをしてしまう「宇野ヘディング事件」だ。宇野選手がヘディングとなる打球を放ったのが、山本選手だったのである。このプレーは1981年に起きているが、30年以上経った今でも語り継がれるシーンである。

1976年:サッシーに沸いたドラフトで「青い稲妻」松本選手が巨人へ

1976年のドラフト会議は夏の甲子園で「サッシー旋風」を巻き起こした酒井圭一選手が話題となっていた。その酒井選手はヤクルトスワローズが指名し入団に至っている。また、注目度の高かった東海大相模高校・原辰徳選手は東海大進学を表明しており、どの球団も指名を行わなかった。

その他には阪急ブレーブスが1位で佐藤義則選手を獲得。ルーキーイヤーの1977年に7勝を挙げ新人王を獲得。現役生活21年を阪急で過ごし通算165勝をマーク。引退後は阪神タイガース、北海道日本ハムファイターズ、東北楽天ゴールデンイーグルス、福岡ソフトバンクホークスで優勝を経験し優勝請負人とも呼ばれている。

この年の下位指名からブレイクを果たしたのが松本匡史選手だ。早稲田大学の松本選手は読売ジャイアンツから5位指名を受け入団。
1年目から二桁盗塁をマークすると1982年(61盗塁)、1983年(76盗塁)と2年連続で盗塁王を獲得している。この76盗塁は2016年終了時点でもセ・リーグ記録となっている。また、青い手袋がトレードマークとなっており「青い稲妻」と称されていた。

1977年:日米野球で本塁打を放った田村選手が入団

1977年ドラフト会議は今後のドラフト史に残るできごとの発端となった年でもある。巨人入りを熱望していた法政大学の江川卓選手をクラウンライターライオンズが強行指名したのだ。江川選手は入団を拒否。翌年のドラフト前日に「空白の一日」を利用し、読売ジャイアンツと契約を交わすことになる。
しかし、この契約は無効とされ、翌年のドラフトで1位指名した阪神タイガースを経由し、巨人にトレード移籍することとなったのだ。江川選手を指名できなかった巨人は1位で山倉和博選手を指名。長きにわたり巨人の正捕手となる選手を獲得したのだ。
結果的に江川選手も巨人に入団することとなるため、この結果がよかったと言えるのかもしれない。

このドラフトで下位指名からブレイクを果たした選手は日本ハムファイターズ6位指名の田村藤夫選手、大洋ホエールズ6位指名の屋鋪要選手だろう。田村選手はレギュラー捕手として10年以上日本ハムで活躍。日米野球にも日本代表として出場し、アメリカ代表のエース・ハーシュハイザー選手から本塁打も放っている。
当時、ハーシュハイザー選手は公式戦59回連続無失点中でもあり、その記録を破ったのが田村選手というジョークも生まれている。(日米野球はMLB公式戦ではないので記録は途切れない)

屋敷選手は俊足を売りとしており、高木豊選手、加藤博一選手とともに「スーパーカートリオ」と呼ばれ3年連続盗塁王にも輝いている。

1978年:空白の一日で話題になったドラフトで落合選手が入団

江川卓選手と読売ジャイアンツによる「空白の1日」事件があり、巨人がボイコットした1978年のドラフト会議。渦中の江川選手を4球団が指名し、抽選の末に阪神タイガースが交渉権を獲得した。しかし、巨人入りを熱望する江川選手が阪神でプレーすることはなかった。
セ・リーグ会長の通達により一度は阪神に入団し、トレードする形で巨人入りすることで一端決は着を付けた。この際、江川選手のトレード相手となったのが、阪神に移籍初年度から22勝をマークし最多勝を獲得するなどの活躍をした小林繁選手だった。
その他の上位指名では、現在中日ドラゴンズを率いてる森繁和監督が西武に1位で入団した。

この年のドラフト会議から各球団4名の指名となり、3位・4位指名が下位指名となっている。その下位から大打者へと成長したのが落合博満選手だ。ロッテオリオンズから3位で指名された落合選手は3度の三冠王を獲得し、引退後も中日ドラゴンズの監督として黄金時代を築きあげるなど、球史に名を残している。

1979年:「山内トリオ」の山内孝徳選手がプロ入り!

1979年ドラフト会議で、当時史上最多となる6球団が1位入札した早稲田大学の岡田彰布選手。岡田選手は阪神タイガースが抽選の末に交渉権を獲得し入団に至っている。その他には日本鋼管の木田勇選手が3球団競合となり日本ハムファイターズへと入団した。
ドラフト1位で競合となった2選手はともに1980年のルーキーイヤーに活躍し新人王を受賞している。とくに木田選手は22勝8敗4セーブ、勝率.773、225奪三振、防御率2.28の成績を残し投手タイトルを独占した。

その他には浪商高校のバッテリー・牛島和彦選手(中日1位)、香川伸行選手(南海2位)がそれぞれ上位指名でプロ入りを果たしている。

この年のドラフトは各球団4位までの指名となっており、3位・4位が下位指名だ。その中で目立った成績を残したのは南海に3位で指名された山内孝徳選手だろう。
山内選手はすぐにプロ入りせず翌年のシーズン終了後に入団。2年目に13勝をマークすると7年連続で二ケタ勝利を達成。引退までに通算100勝をマークし南海の投手陣を支える活躍を見せている。
また、同時期に山内姓の投手が2名(山内新一選手、山内和宏選手)おり「山内トリオ」と呼ばれていた。