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【1980年代前半を振り返る】ドラフト下位指名からのブレイクは?

2017 10/13 10:05cut
野球ボール,グローブ,バット
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1980年:スーパーカートリオの一角・高木選手が入団

原辰徳選手、石毛宏典選手が注目となっていた1980年のドラフト会議。原選手には4球団、石毛選手には2球団が入札。それぞれ読売ジャイアンツ、西武ライオンズが交渉権を獲得し入団に至っている。
両選手ともに1年目から期待通りの活躍を見せ新人王に輝くと長きにわたり、チームを引っ張る存在となった。その他には横浜高校のエース・愛甲猛選手がロッテオリオンズから1位指名を受け入団している。

この年は各球団4名までの指名となっているため3位、4位が下位指名となる。そのなかで、ブレイクを果たしたといえるのが高木豊選手(大洋3位)、弓岡敬二郎選手(阪急3位)だろう。
高木選手は「スーパーカートリオ」として屋敷要選手、加藤博一らと売り出され盗塁王も獲得している。
弓岡選手は遊撃手としてレギュラーを獲得。打撃タイトルの獲得はないものの、ベストナイン1回、ゴールデングラブ賞2回を受賞している。また、指導者として独立リーグの愛媛マンダリンパイレーツを独立リーグ日本一に導くなどの成果を残した。愛媛マンダリンパイレーツはこの実績を讃え弓岡監督が背負った背番号「77」を永久欠番と制定している。

1981年:社会人野球入りの噂が先行していた工藤選手が6位で西武へ

1981年のドラフト会議は愛知県の高校生3人が注目を集めていた。大府高校の槙原寛己選手、愛知高校の浜田一夫選手、名古屋電気高校の工藤公康選手だ。
槇原選手は読売ジャイアンツが1位で指名。浜田選手は中日ドラゴンズが2位で指名している。工藤選手は熊谷組へ進むという情報が流れていたために、各球団指名を回避。しかし、「寝業師」とも呼ばれていた西武ライオンズの根本陸夫氏が6位で強行指名し、各球団を驚かせている。

下位指名で実績を残した選手は前述の工藤選手が筆頭格だ。工藤選手は西武の黄金時代をエースとして過ごし、その後、福岡ダイエーホークス、読売ジャイアンツ、横浜ベイスターズ、再び西武と渡り歩いている。通算224勝をマークし現在は福岡ソフトバンクホークスの監督を務めるなど球界に大きく貢献した選手といえるだろう。

また、ロッテオリオンズが5位で指名し西村徳文選手も大きな実績を残している。ロッテでは俊足巧打の二塁手として活躍。首位打者1回、盗塁王4回のタイトルを獲得。ベストナイン、ゴールデングラブ賞を各2回ずつ受賞するなど一時代を築き現役引退後に監督も務めている。

1982年:中日が下位指名で彦野選手、宮下選手を獲得

「甲子園のアイドル」こと荒木大輔選手が目玉となった1982年のドラフト会議。荒木選手は読売ジャイアンツ、ヤクルトスワローズの2球団が競合。抽選で当たりくじを引いたのはヤクルトだった。
荒木選手を抽選で外した巨人はハズレ1位で斎藤雅樹選手を指名。「平成の大エース」と呼ばれるほどの活躍を果たし、結果的にプロでの成績は斎藤選手に軍配が上がっている。
その他には阪神タイガースの正捕手を長らく務めた木戸克彦選手が、1位で指名されている。

この年の下位指名で光るのは中日ドラゴンズだ。このドラフトで後の中心選手となる5位指名で彦野利勝選手、6位で宮下昌己選手を獲得した。
彦野選手はベストナイン1回、ゴールデングラブ賞3回を獲得するなど、外野のレギュラーとして活躍。1989年には26本塁打を放つなどパンチ力も魅せた。また、本塁打を放ったあとに故障を発症し代走を出されるという珍しい記録も持っている。本塁打の後に代走を出されたのはプロ野球史上2例目だった。

また6位の宮下選手は中継ぎとして活躍したが、もっとも記憶に残っているのはクロマティ選手(巨人)との乱闘事件だろう。宮下選手に背中へ死球を当てられたクロマティ選手が激怒。宮下選手はマウンド上で殴打されることとなったのだ。後に両者は和解しているが、当時の扱いは大きくスポーツ紙の一面を大きく飾っている。

1983年:最年長記録を多数打ち立てた山本昌広選手が入団!

東海大学のエース高野光選手、創価高校の小野和義選手に注目が集まった1983年ドラフト会議。高野選手には4球団、小野選手には3球団が入札。抽選の結果、高野選手がヤクルトスワローズ、小野選手が近鉄バファローズへの入団となった。その高野選手は翌1984年の開幕投手を務めている。新人選手が開幕投手となるのはドラフト制となって以降初の快挙だった。
また西武の上位指名は渡辺久信選手(1位)、辻発彦選手(2位)と黄金時代の中心メンバーだ。両選手は現役引退後に監督も務めており、大当たりのドラフトと言えるだろう。また、その他のチームを見ると水野雄仁選手(巨人1位)、吉井理人選手(近鉄2位)、小早川毅彦選手(広島2位)らが名を連ねている。

下位指名では息の長い活躍を見せた山本昌広選手(中日5位)、スローカーブを武器に176勝をマークした星野伸之選手(阪急5位)らがいる。山本選手はプロ野球タイ記録となる実働29年を誇り2015年に現役を引退(2016年にオープン戦で1試合だけ選手契約を結んでいる)。数々の最年長記録を築き上げた。

1984年:福良監督も入団時は6位指名!

ロサンゼルス・オリンピックで金メダルを獲得した際の中心メンバーであった広沢克己選手、日米大学野球で活躍した竹田光訓選手が、目玉となった1984年のドラフト会議。両選手ともに3球団が入札。抽選の末に広沢選手はヤクルトスワローズ、竹田選手は横浜大洋ホエールズへと入団が決まっている。広沢選手はヤクルト、巨人、阪神と3球団で活躍。2016年終了時点で巨人・阪神の両球団で4番を打った唯一の選手でもある。

その他の上位指名では正田耕三選手(広島2位)、和田豊選手(阪神3位)ら攻守にわたり活躍したいぶし銀的な存在の両選手が名を連ねている。

一方、下位指名で目立った選手といえば、阪急ブレーブスの6位指名である福良淳一選手だろう。福良選手は阪急(オリックス含む)で13年間にわたりプレー。ベストナインに2度輝くなど名二塁手として活躍。2016年からはオリックス・バファローズの監督として指揮を執っている。

また、近鉄バファローズが5位で指名したのが鈴木貴久選手だった。鈴木選手は3年目の1987年にレギュラーを獲得すると21本塁打を放つ活躍。そこから4年連続で20本塁打を達成するなど中軸として成績を残し、現役引退までに通算192本塁打を放ったパワーヒッターだ。
タイトルの獲得こそなかったが、当時の近鉄において忘れてはいけない一人でもある。