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10番台で唯一の投手ゼロに、永久欠番は最多の3球団 プロ野球における背番号10の選手たち

2023 5/24 11:00SPAIA編集部
(左から)巨人・中田翔とロッテ・友杉篤輝
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ⒸSPAIA

2023年現役選手の背番号「10」

すべての背番号において最多となる3球団が永久欠番に制定している背番号「10」。また永久欠番とはなっていないが、プロ野球記録となる3085安打を放った張本勲が背負い続けた番号でもある。その影響からか“満塁男”駒田徳広や、広島時代の金本知憲、巨人の阿部慎之助など、通算2000安打を達成した左の好打者たちが着用していた。

では、2023年はどのような選手が背負っているのだろうか。各球団の背番号「10」は以下の通りとなっている。

オリックス:大城滉二内野手
ソフトバンク:コートニー・ホーキンス外野手
西武:マーク・ペイトン外野手
楽天:永久欠番(ファンのための番号)
ロッテ:友杉篤輝内野手
日本ハム:清水優心捕手

ヤクルト:荒木貴裕内野手
阪神:永久欠番(藤村富美男)
巨人:中田翔内野手
広島:マクブルーム内野手
中日:永久欠番(服部受弘)
DeNA:戸柱恭孝捕手

不在:0球団
永久欠番:3球団
投手:0球団
捕手:2球団
内野手:5球団
外野手:2球団

阪神は「初代ミスタータイガース」藤村富美男の番号として永久欠番になった。阪神で背番号「10」を背負ったのは藤村のみとなっている。中日は服部受弘が着用し、西沢道夫に次ぐ永久欠番として1960年3月に制定された。これ以降、中日では永久欠番は制定されていない。

楽天は日本球界史上初となる、特定の選手ではなくファンのために「10」を永久欠番とした。球団創設時に制定されたため選手、コーチ、監督を含め着用した人物はいない。

現役選手では内野手が5球団で最多だった。巨人では2019年に阿部慎之助が引退後、空き番となっていたが、2021年に新外国人のスモークが着用。その後、2022年に日本ハムから途中加入した中田翔が受け継いでいる。

ロッテでは天理大からドラフト2位で入団した新人の友杉篤輝が「10」を着用。森友哉がFAでオリックスへ移籍した西武では新助っ人のペイトンが新たに背負っている。また、大竹耕太郎が現役ドラフトで阪神へ移籍したソフトバンクでも、新外国人のホーキンスが継承。これで、今季から10番台では唯一、投手の着用がゼロとなっている。

次章以降では「10」を背負った歴代の名プレーヤーを紹介する。

日本球界最多安打記録保持者・張本勲

日本プロ野球において史上最多の3085安打を放った張本勲。日米通算ではイチローが4367安打をマークしているものの、日本球界で3000安打を達成したのは張本しかおらず、球史に残る偉大な選手の一人である。

張本は504本塁打、319盗塁も記録しており、日本で唯一の500本塁打300盗塁達成者でもある。安打を放つだけでなく、本塁打を放つパワー、盗塁を決めるスピードも兼ね備えていた。1981年にロッテで現役を引退し、その後はコーチや監督など指導者を務めることはなく、1990年に野球殿堂入りを果たした。 現在はテレビ番組などでコメンテーターとしても活躍している。

張本は1959年に浪華商業高校から東映(現日本ハム)に入団。その後、巨人、ロッテと3球団を渡り歩いたが、背番号は「10」で一貫していた。しかし、3球団ともに永久欠番にはなっておらず、背番号「10」は現在も使用されている。

「初代ミスタータイガース」藤村富美男

阪神で初めて永久欠番に制定されたのが「初代ミスタータイガース」藤村富美男の背番号「10」だった。

藤村は1936年に大阪タイガースへ入団。投打に渡り「二刀流」として活躍し、投手として通算8年で34勝11敗、防御率2.35。打者としては通算17年で打率.300(5648打数1694安打)、224本塁打、1126打点を記録している。また、首位打者1回、本塁打王3回、打点王5回と多くの打撃タイトルも獲得し、MVPに1回、ベストナインに6回輝くなどチームを支えた名選手だった。

阪神の歴史上、背番号「10」は藤村しか背負っていない。一人の選手しか背負ったことのない番号が、永久欠番となったケースは他にないだろう。藤村は1958年に現役引退したが、1946年と1955~57年に選手兼任監督として指揮を執った際も背番号「10」を着用した。

その後、国鉄(現ヤクルト)、東映(現日本ハム)でコーチを務めたが、その際は「10」を背負わず、1968年を最後に指導者から退いた。1974年には野球殿堂入りを果たしている。

村山実、田淵幸一、掛布雅之らが藤村と同様に「ミスタータイガース」と呼ばれた中で、永久欠番となったのは藤村と村山のみ。新たに永久欠番となるほどの実績を残す「新ミスタータイガース」の誕生が待たれる。

中日最後の永久欠番・服部受弘

中日において史上2人目の永久欠番となった服部受弘の背番号「10」だが、1960年3月に制定されて以降、永久欠番は生まれていない。2代目ミスタードラゴンズとも呼ばれ監督まで歴任した高木守道の背番号「1」や、立浪和義の背番号「3」なども永久欠番にはなっていない。

球団史上最後の永久欠番となった服部は、1939年に名古屋軍(現中日)に入団し、投打に渡り活躍した。投手としては10年間で112勝65敗、防御率2.81、野手としては15年間で打率.239(1867打数447安打)、33本塁打、208打点の成績を残している。1941年には本塁打王を獲得するなど、主力選手として活躍。1958年に現役を引退し、背番号「10」は永久欠番となった。

永久欠番に関するエピソードとして、「フォークボールの神様」と呼ばれた杉下茂が「もうひとりの永久欠番である西沢道夫とともに、引退させるための妥協点として背番号を永久欠番とするという話があった」と語っている。

「ビッグレッドマシン」を率いたスパーキー・アンダーソン監督

メジャーリーグで偉大な背番号「10」として知られる一人が、ニューヨーク・ヤンキースのフィル・リズートだ。リズートは1937年にヤンキースへ入団。168センチと小柄ながらも、現役時代は1661試合に出場し、打率.273(5816打数1588安打)、38本塁打、563打点の成績を残した。

その後、約40年間にわたってヤンキース戦の中継で解説・アナウンサーを担当し、多くの名実況を生み出した。1985年には背番号「10」が永久欠番となった。

また1970年代に一世風靡したシンシナティ・レッズを率いたスパーキー・アンダーソン監督も背番号「10」だった。1970年に監督就任すると、リーグ優勝を達成し、1978年までの9年間で2度のワールドシリーズ優勝(1975年、1976年)など輝かしい成績を誇った名将だ。

中でも「ビッグレッドマシン」と呼ばれた打線は強力だった。1978年の日米野球で来日も果たしている。2000年に野球殿堂入りし、レッズでは背番号「10」が永久欠番となった。

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