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KKから野茂選手まで・1980年代後半のドラフトを振り返る

2017 8/25 10:07cut
野球、ボール
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Photo by joephotostudio/Shutterstock.com

1985年:清原選手の涙

1985年夏の甲子園は清原和博選手、桑田真澄選手の「KKコンビ」を中心選手としたPL学園高校が優勝する。史上最多となる甲子園通算13本塁打を放った清原選手に注目が集まる一方、桑田選手は大学進学を表明しており各球団共に指名リストから外していた。

注目の清原選手には6球団が競合(西武、南海、日本ハム、中日、近鉄、阪神)指名がかかる。しかし、彼が熱望していた巨人からの入札はなかった。大学へ進学を希望していたはずの桑田選手を巨人が指名したからでもある。寝耳に水であった清原選手は涙する。
抽選の末、西武が清原選手の交渉権を獲得した。桑田選手は「指名されるとは思わなかった。清原君に申し訳ない」という趣旨の発言をするが、巨人へ入団することになる。

KKコンビ以外で注目を集めたのが本田技研の伊東昭光選手だ。3球団が競合(ヤクルト、阪急、ロッテ)し、ヤクルトが抽選で当たりくじを引き、入団にこぎ着けている。

中位、下位指名では日本ハム3位で田中幸雄選手、阪急4位で本西厚博選手らが指名されており、チームの主力として活躍を果たした。

1986年:高校生左腕・近藤選手に5球団競合

1985年のドラフトで「KKコンビ」といった高校生が注目を浴びていたが、1986年も注目度ナンバー1は高校生だった。享栄高校の大型左腕・近藤真一選手である。意中の球団は「中日」と表明していた近藤選手に5球団(中日、ヤクルト、日本ハム、阪神、広島)が入札。
中日の星野仙一監督が当たりくじを引き、希望の球団に入団することとなった。近藤選手はプロ初登板となった巨人戦で、史上初のデビュー戦ノーヒットノーランを達成し、鮮烈なデビューを果たしている。2017年現在は中日のコーチとして後進の育成に努めている。

また、1980年代後半から1990年代にかけて「トレンディーエース」として、女性ファンから人気を集めることになる阿波野秀幸選手は、近鉄、大洋、巨人3球団から入札された結果、近鉄へ入団。西崎幸広選手は、近藤選手の抽選を外した日本ハムが獲得した。阿波野選手はのちに近鉄から巨人、大洋(横浜)にも移籍し、結果1位入札された3球団に在籍したことになる。

中位・下位指名では緒方孝市選手(広島3位)、飯田哲也選手(ヤクルト4位)、藤井康雄選手(阪急4位)、緒方耕一選手(巨人6位)らが入団を果たした。

1987年:長嶋一茂選手はヤクルトへ

PL学園が春夏連覇を果たした1987年。同校の中心選手として活躍していた立浪和義選手は、中日と南海の2球団が入札。中日が当たりくじを引き、名球会入りの条件となる2000本安打を大きく上回る2480本安打を放ち、名選手へと成長した。投手陣の橋本清選手は巨人が1位で単独指名、野村弘選手は大洋3位でそれぞれプロの世界へと飛び込んだ。

「ミスタープロ野球」こと長嶋茂雄選手の息子である長嶋一茂選手は、ヤクルトと大洋が入札。ヤクルトが抽選の末に交渉権を得ることに成功し、偉大なる父親と同じプロ野球界に飛び込んだ。しかし、ヤクルト、巨人でプレーするも長嶋茂雄選手のような活躍には至らず384試合に出場し、打率.210(765打数161安打)の成績に終わっている。

1位指名を見ると野田浩司選手(阪急1位)、伊良部秀輝選手(ロッテ1位)、武田一浩選手(日本ハム1位)と好投手がプロ入り。中位・下位指名で堀幸一選手(ロッテ3位)、大道典良選手(南海4位)と息長く活躍をした渋い選手達も入団を果たしている。

1988年:野村謙二郎選手が単独1位で広島へ

ドラフト前の評判では大きな目玉がおらず、1位入札では6球団が単独指名。競合となったのは川崎憲次郎選手(ヤクルト、巨人)、中島輝士選手(日本ハム、ダイエー)、酒井勉選手(オリックス、ロッテ)の3名だった。川崎選手はヤクルト、中島選手は日本ハム、酒井選手はオリックスがそれぞれ交渉権を確定させている。

競合とならなかった選手には野村謙二郎選手(広島1位)、谷繁元信選手(大洋1位)と2人の名球会入り、監督経験者が含まれている。広島、大洋はみごとな一本釣りを果たしたと言えそうだ。

ドラフト2位では、岡幸俊選手が5球団による競合(ヤクルト、広島、巨人、ロッテ、大洋)となり人気となった。抽選の結果、ヤクルトに入団が決まった。岡選手は1年目から22試合に登板したもののヒジの故障もあり、1994年に野手へ転向。大きな成果を残すことはできなかった。

また、下位指名では初芝清選手(ロッテ4位)、江藤智選手(広島5位)、平井光親選手(ロッテ6位)らがプロ入りを果たしている。

ドラフトとしてはこの年、大きな目玉はいなかったものの、入団後を振り返ってみると初芝選手、江藤選手らが長きにわたり活躍している。

1989年:野茂選手に8球団競合

1989年のドラフト会議は、新日鉄堺の野茂英雄選手が大注目されていた。「トルネード投法」と呼ばれる独特なフォームから繰り出される剛速球、そしてフォークボールで三振の山を築き、ソウルオリンピックで銀メダルに貢献。何球団指名に動くのかが焦点となっていた。

またこの年のドラフトから、指名選手がモニターに映し出される仕様に変わった。目玉の野茂選手には史上最多となる8球団(近鉄、ロッテ、大洋、日本ハム、阪神、ダイエー、ヤクルト、オリックス)が入札。抽選の末に近鉄が交渉権を獲得し入団に至っている。

野茂選手の他にも、この年のドラフトは後の名選手が多数指名されていた。1位指名では佐々木主浩選手(大洋)、小宮山悟選手(ロッテ)、佐々岡真二選手(広島)、与田剛選手(中日)、潮崎哲也選手(西武)らがプロ入り。2位以下にも古田敦也選手(ヤクルト2位)、岩本勉選手(日本ハム2位)、前田智徳選手(広島4位)、新庄剛志選手(阪神5位)らが指名され、1990年代のプロ野球界を盛り上げてくれた。

野茂選手の外れ1位でダイエーに指名された元木大介選手は、巨人入りを熱望しており入団を拒否。浪人の末、翌年無事に巨人へ入団を果たしている。

1980年代後半は後のプロ野球に大きな影響を与える選手達が多く入団した。1985年に清原選手、桑田選手。1989年にはMLB挑戦のパイオニアとなる野茂選手、球界ナンバー1捕手の座へ長きにわたり君臨することになる古田選手らだそうだ。

2017年現在で全員が現役を引退しているが、球史にはその名が多く残っており印象深い選手達が多く揃っていたといえそうだ。