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榎本選手への指導で道が拓けた荒川博コーチ【球史に名を残した偉人達】

2017 8/3 12:07cut
野球ボール
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甲子園にエースとして出場

2016年12月に急逝した荒川博氏。亡くなった当日も仕事があり、昼食時に突然倒れ、そしてそのまま帰らぬ人となった。夜には読売ジャイアンツのOB会にも出席予定となっていた。

荒川氏と言えば「世界の王」こと王貞治選手を指導し、代名詞でもある「一本足打法」を考案したことが有名だ。しかし、荒川氏の野球人生はそれだけではない。 アマチュア時代から選手として活躍。プロ野球の世界に飛び込んだ後も9年間選手としてプレーをする。その後ヤクルトスワローズの監督まで務めた人物だ。また、歴史に残る「荒川事件」の被害者となっ荒川尭選手を養子にとっていたことでも知られている。

荒川選手は早稲田実業時代、1948年春のセンバツで投手として甲子園に出場。1回戦で神戸二中と対戦する。先発した荒川選手は神戸二中打線を封じ込め1-0と、6回までは試合を優位に進めていた。しかし、7回に同点に追いつかれると、9回に勝ち越し点を許してしまい1-2と惜敗。荒川選手は完投したものの甲子園での白星を手にすることはできなかった。

甲子園には1度しか出場することができなかった荒川選手は、卒業後に早稲田大学へと進学する。早稲田大学では、後に巨人で活躍する岩本尭選手と同期であり、広岡達朗選手は後輩だった。大学時代に打率.280、1本塁打、40打点の成績を残し、1953年に毎日オリオンズへと入団。プロの世界に飛び込んだのだ。

1年目からファン投票でオールスターへ

1953年にプロ入りを果たした荒川選手。開幕2戦目(3月22日)から2番右翼でスタメン出場を果たしている。この試合では2打数ノーヒットと結果を残すことができず、試合途中で退いている。スタメン、代打などで起用されていた荒川選手が、初安打を記録したのは3月31日の阪急ブレーブス戦だった。河内卓司選手の代打で出場を果たすと初安打をマークしたのだ。この試合では初盗塁も決めている。
4月に入るとスタメンで出場することも多くなり、ルーキーながらオールスターゲームにも出場する。荒川選手はファン投票で選出されており、その人気の高さをうかがわせてくれた。1年目は99試合に出場、規定打席に到達しなかったものの打率.315(251打数79安打)、1本塁打、20打点の成績を残している。
この活躍から当時、チームの世代交代問題が差し迫っていた毎日(毎日オリオンズ)において、期待をかけられる存在となっていた。
周囲の期待が高まっていた荒川選手は2年目にレギュラーへ定着。シーズン序盤こそ欠場したものの、4月20日に初出場を果たすと、シーズンを通して右翼のポジションで試合に出場。116試合で打率.270(374打数101安打)、5本塁打、25打点の記録を残している。この年の101安打、5本塁打がキャリアハイとなっており、選手時代に大きな実績を残すことはできなかった。

現役をわずか9年で退く

入団2年目となる1954年にレギュラーを確保した荒川選手。1956年まで3年連続で100試合以上に出場したが、それ以降は出場試合数を減らしている。1960年には初めて50試合を下回る36試合出場にとどまり、打率.097(31打数3安打)、1本塁打、7打点と衰えを隠せなくなっていた。
翌1961年は46試合に出場し打率.179(39打数7安打)、0本塁打、3打点。シーズン終了後にチームから放出され退団となり、現役を引退した。
1953年に入団した荒川選手は1961年まで9年間プレー。802試合に出場し打率.251(2005打数503安打)、16本塁打、172打点の成績を残している。
タイトルの獲得はなく、オールスターへの出場もルーキーイヤーの1回のみ。しかし、翌1962年から読売ジャイアンツの打撃コーチに就任するなど、「指導力」に定評があった。

荒川コーチの指導力

現役時代に選手として大きな実績を残したわけではない荒川氏。しかしその荒川氏が引退と同時に川上哲治監督率いる巨人の打撃コーチへと招かれたのには理由がある。
「安打製造機」と呼ばれていた榎本喜八選手を現役時代から指導していたのである。
榎本選手は荒川氏にとって早稲田実業の後輩でもあり、1955年の入団当時から目をかけていた。その、榎本選手は入団1年目からレギュラーに定着。139試合に出場し打率.298(490打数146安打)、16本塁打、67打点の成績で新人王に輝いた。2年目以降も荒川選手らのアドバイスへ耳を傾けながら、安定した活躍を見せる。しかし、打率は3割に届かずあと一歩の状態が数年間続いていた。
その殻を破るきっかけを与えたのは荒川選手だった。1959年オフに荒川選手が榎本選手へ合気道を紹介すると呼吸法を研究。精神面での安定を図れるようになり、翌1960年に初めて打率3割を超え、首位打者を獲得(打率.344)する。なんと4年連続で3割を達成した。
以降も榎本選手は活躍を重ね、現役通算2314安打を放ち首位打者も2回獲得する大打者へと飛躍を遂げたのだった。 榎本選手のブレイクを目の当たりにした川上監督が、荒川選手に目をつけ、コーチとして呼び込んだのである。

ヤクルト監督時代は結果を残せず

荒川氏は現役引退後にブランクを空けずに巨人のコーチとして、1962年から1970年までの9年間ユニフォームを着る。その巨人時代には王選手を始め多くの選手を育てるなどの実績を残した。
巨人退団後に2年のブランクを経て、1973年にヤクルトアトムズ(現スワローズ)のコーチへ就任する。当時、ヤクルトを率いていたのは早稲田大学の先輩でもある三原脩監督だった。翌1974年には三原監督の後を継ぎ監督へと就任。3年に渡り監督を務めたものの、シーズン勝ち越しは1度もなく結果を残すことができなかった。
1976年に監督を退くと早稲田大学の後輩である広岡監督へとバトンタッチ。ヤクルトは三原監督、荒川監督、広岡監督と3代続けて早稲田大学OBが監督となったのだ。
1976年にヤクルトの監督を退任後は、ユニフォームを着ることなくテレビ、ラジオの解説者として活躍していた。
王選手の指導が最も取り上げられる荒川コーチだが、そのルーツは榎本選手への指導である。その手腕と成果を見抜いた川上監督が、荒川選手をコーチとして招き入れたことで、後の、王選手の一本足打法が誕生したとも言えるだろう。今後も荒川コーチのような名コーチが誕生することを心待ちにしたい。