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三原脩監督が大洋で魅せた「三原マジック」【球史に名を残した偉人達】

2017 8/3 12:07cut
ベンチに野球ボールとバットとグローブ
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三原脩監督の大洋監督就任以前

三原脩選手は高松中学、早稲田大学、全大阪でプレーし大日本東京野球クラブ(現読売ジャイアンツ)に入団。内野手として1936年から1938年の3年間に渡りプレーする。
しかし、選手としては大成しなかった。三原選手は1938年に現役を引退後に現場を離れていたが、1947年に巨人の監督として現場復帰すると、3年目となる1949年シーズンにリーグ優勝(85勝48敗1分)を達成した。しかし、水原茂監督を推す球団内の選手達から「三原監督排斥運動」が起きチームを離れることになる。
1年のブランクを経て1951年に西鉄ライオンズの監督に就任。「打倒巨人」を掲げチームの指揮を執る。1954年にリーグ優勝を飾ったが、日本シリーズでは巨人ではなく中日ドラゴンズに敗れ悲願はならなかった。
その後、1956年から1958年の間に3連覇を達成。日本シリーズでも3年連続で水原監督率いる巨人相手に勝利し念願を成し遂げている。1958年の日本シリーズは史上初の「3連敗後の4連勝」を達成し世間を驚かせた。
3連敗後の4連勝は当時、メジャーリーグのワールドシリーズでも達成されておらず、日米を通じて初の出来事となった。このシリーズで稲尾和久選手が4連投でチームを勝利に導いている。この登板が「神様、仏様、稲尾様」の発端となったのだ。
翌1959年は3連覇から一転して4位に沈んだことで、西鉄の監督を退任。三原監督は1960年から大洋ホエールズの監督へと就任することになる。

大洋ホエールズのそれまで

1960年に三原監督が就任することとなった大洋ホエールズ。1950年の2リーグ制以降で3位以上に入ったことはなく、1952年の4位が最高成績だった。
また、シーズン勝ち越しも初年度となる1950年(69勝68敗3分)の1度のみ。1954年から1959年まで6年連続最下位。2リーグ制以降の10年間で指揮を執るのも渡辺大陸監督、中島治康監督、有馬義一監督、小西徳郎監督、永沢武夫監督、藤井勇監督、迫畑正巳監督、森茂雄監督と次々に変わり三原監督は9人目の監督となった。
このような状況の中で監督に就任した三原監督はファンからも大きな期待をかけられていた。また、西鉄監督時代に日本シリーズで雌雄を決した巨人、そして水原茂監督との再戦も話題を呼んだ。

開幕6連敗、エースが離脱で始まったシーズン

三原監督が大洋の指揮を執った1960年。開幕戦の相手は中日ドラゴンズだったのだが、試合前の練習中に相手コーチのバットが、大洋エースの秋山登選手の頭に直撃した。秋山選手は昏倒し、開幕戦を離脱する事故に見舞われた。

その影響でチームは開幕から白星を挙げることができずに、6連敗スタート。エースの離脱、そして6連敗と前途多難なシーズン開幕となった。

しかし、7戦目で初勝利をマークするとそこから3連勝。中旬から下旬にかけては6連勝をマークし、4月を10勝12敗の借金2で凌ぎきる。5月も9勝10敗で乗り切ると6月から優勝へ向けて加速を始めた。6月半ばに近鉄バファローから鈴木武選手を獲得するとチームは調子づき、13勝7敗2分と貯金を作ることに成功した。

7月を10勝10敗で乗り切ると、8月は14勝8敗で貯金を増やす。なかでも8月11日の試合では島田源太郎選手が、史上6人目となる完全試合を達成。優勝へのスパートをかけるきっかけとなった。9月も13勝7敗1分と大きく勝ち越し、10月2日に悲願の優勝を達成した。

夏場以降、チーム調子を上げた要因の一つに投手の分業制が挙げられる。現代野球では珍しくないが、当時は先発完投があたりまえの時代。そのなかで、三原監督は継投策を用い「1人1殺」といった投手起用を行っていた。

その成果もあり、1点差での勝利が34と接戦をものにした。こういった投手起用が「三原マジック」と呼ばれる所以でもある。

日本シリーズでは「ミサイル打線」に完勝!

大洋をチーム創設以来、初となるリーグ優勝に導いた三原監督。日本シリーズの相手は「ミサイル打線」を誇る大毎オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)だった。

初戦から三原監督は「三原マジック」を発動させる。初回1死一、二塁のピンチで4番・山内和弘選手を迎えると先発の鈴木隆選手からエースの秋山登選手へスイッチ。1死を取ったのみで先発投手を交代させる非情ともいえる采配だった。

秋山選手はこのピンチを脱し、以降も9回までスコアボードに0を並べ完封。打線は7回に金光秀憲選手の本塁打による1点のみに終わったが、秋山選手にはそれで十分だった。

2戦目も1戦目同様に接戦で試合が進む。3-2と大洋が1点リードで迎えた8回表、大毎の攻撃。1死満塁のピンチを迎えるとエース秋山選手を投入した。大洋バッテリーはスクイズを警戒し変化球を多投。予想通り敢行された大毎のスクイズを併殺に打ち取り見事勝利をたぐり寄せる。

3戦目も大洋が勝利し迎えた4戦目。5回に大洋が1点を奪い1-0で試合は進む。7回裏、大毎は1死二、三塁のチャンスからスクイズを敢行する。しかし、このスクイズも大洋バッテリーは読んでおり大きくウエスト。打者は必死に食らいついたものの、ファールフライとなり無失点に切り抜けた。その後も両チーム得点が入らないまま試合は進み大洋が勝利し、大洋は4連勝で日本一を達成した。

このシリーズで秋山選手が4連投を果たしており、西鉄時代の稲尾選手を彷彿させる働きを見せている。 三原監督は就任1年目で前年最下位だったチームを日本一へと導いたのだった。

1960年の日本一以後

1960年に日本一となった大洋だったが、その後は優勝に手が届かなかった。三原監督は1967年まで大洋の監督を務めたが2度の2位が最高成績となっている。(以降、大洋は1998年まで優勝できず)その後、近鉄、ヤクルトの監督をそれぞれ3年間務め1973年に監督業から退いた。
監督通算1687勝は、鶴岡一人氏の1773勝に次ぐ歴代2位となっている。また、監督として3248試合出場は歴代最多である。5球団(巨人、西鉄、大洋、近鉄、ヤクルト)での指導経験は藤本定義監督、石本秀一監督と並び1位タイだ。
これらの数字に加えて3球団で優勝を達成した実績がたたえられ、三原監督は1983年に野球殿堂入りを達成している。
殿堂入りの翌年である1984年に亡くなった三原監督。「三原マジック」「魔術師」など多くの異名を与えられた名監督は、現代野球に大きな功績をもたらした1人である。今後も三原監督のような名将が誕生することに期待したい。