「スポーツ × AI × データ解析でスポーツの観方を変える」

空前の大豊作だった1968年ドラフト会議の答え合わせ、7人が名球会入り

2022 9/18 06:00SPAIA編集部
山本浩二,Ⓒゲッティイメージズ
このエントリーをはてなブックマークに追加

Ⓒゲッティイメージズ

目玉は「法政三羽烏」

1965年から始まったプロ野球ドラフト会議。第4回を迎えた1968年は多くの名選手が誕生した。後に200勝、2000安打で名球会入りした選手は、なんと7人(その年のドラフトで指名されたものの入団しなかった選手を含めると8人)もいる。選手引退後にプロ野球の一軍監督を経験した選手も7人おり、この年のドラフトは大豊作だった。

金田正一(当時巨人)の実弟・金田留広(日本通運浦和)が東映(現日本ハム)に指名されたことも話題になったが、目玉は山本浩二、田淵幸一、富田勝の法政大学所属の3選手。「法政三羽烏」と呼ばれ、即戦力としての期待が高かった。

当時のドラフトは一斉入札ではなく、予備抽選で指名順を決める方式。予備抽選では東映、広島、阪神、南海、サンケイ、東京、近鉄、巨人、大洋、中日、阪急、西鉄の順に決定した。奇数順位は1番から12番へ、逆に偶数順位は12番から指名した。

東映は、東都大学野球連盟新記録となる20本塁打を放っていた亜細亜大学の大橋穣を指名。続く広島が山本浩二を指名した。

立教大学時代の長嶋茂雄が記録した8本塁打の東京六大学記録を大幅に更新する22本塁打を放っていた田淵を指名したのは阪神だった。続く南海が富田を指名。「法政三羽烏」は4球団目までに全員が指名された。

プロ入り後は山本が「ミスター赤ヘル」として名球会入り。現役引退後も広島の監督、第3回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)でも日本代表監督を務めるなど輝かしい実績を残した。

田淵は阪神時代に13年連続本塁打王だった巨人・王貞治からタイトルを奪うなどスラッガーとして名を馳せ、通算474本塁打をマーク。現役引退後は福岡ダイエーの監督も務めた。

富田も南海、巨人、日本ハム、中日と4球団でプレーし1303試合に出場。1087安打、107本塁打を記録している。

1968年ドラフト1位選手の通算成績

名球会入りが史上最多7人

この年のドラフト指名選手から、史上最多となる7人の名球会入り選手が誕生している。

「ミスター赤ヘル」こと山本浩二(広島1位)、284勝の「サブマリン」山田久志(阪急1位)、「ミスターロッテ」有藤道世(東京1位)、通算251勝を挙げた東尾修(西鉄1位)、2055安打の加藤秀司(阪急2位)、1065盗塁の福本豊(阪急7位)、2204安打の大島康徳(中日3位)だ。

また、当時は入団拒否したが、567本塁打を放った門田博光(クラレ岡山)も阪急から12位で指名されていた。阪急はこの年のドラフトで山田、加藤、福本と3人の名球会入り選手を指名。入団拒否された門田も指名しており、阪急の「スカウト力」の高さがうかがい知れる。

【名球会入りを果たした選手】
広島1位:山本浩二(法政大)
阪急1位:山田久志(富士鉄釜石)
東京1位:有藤道世(近畿大)
西鉄1位:東尾修(箕島高)
阪急2位:加藤秀司(松下電器)
中日3位:大島康徳(中津工業高)
阪急7位:福本豊(松下電器)

阪急12位:門田博光(クラレ岡山)※入団拒否➝1969年南海2位

星野仙一らの大物も輩出

名球会入りはしていないものの、好成績を残した選手も多い。

法政三羽烏と東京六大学で死闘を繰り広げた明治大のエース星野仙一もこの年のドラフトだ。ドラフト前に巨人が「田淵君を1位指名できなかったら星野君を指名する」と本人に話していたものの、巨人は星野ではなく、武相高の島野修を指名。この一件から星野は中日に入団後、巨人への闘争心をむき出しにして「巨人キラー」となった。

大洋が1位で指名した野村収(駒澤大)は、ロッテ、日本ハム、大洋、阪神と4回の移籍をして通算121勝をマーク。史上初めて12球団から勝利を挙げた投手となった。交流戦のなかった時代に、セ・パ各2球団に所属する必要のある、極めて達成困難な記録だった。

南海に3位で指名された松井優典は1979年に引退するまで140試合の出場にとどまるが、引退後に名を馳せた一人だ。ヤクルト野村克也監督の下で二軍監督、チーフコーチなどを務めて1990年代の黄金時代を支え、野村監督が阪神の監督となった際もヘッドコーチ就任。楽天でも二軍監督も務めるなど、複数球団で指導力を発揮した。

下位指名では異色の選手も

下位指名からプロ入り後に活躍した選手もいる。中日がドラフト9位で指名した島谷金二(四国電力)がその一人だ。

島谷は過去にサンケイ(現ヤクルト)、東映、東京から3度の指名を受けていたが入団に至らなかった。しかし、通算4度目の指名となったこの年は入団に合意。1年目でレギュラーを獲得し125試合に出場している。

中日、阪急と14年間の現役生活で通算1682試合に出場し、1514安打をマーク。ベストナイン2回、ダイヤモンドグラブ賞を4回受賞するなど攻守にわたって活躍した。4度の入団拒否をしながら、それでも指名された実力をプロの世界で見せつけた。

また、東京は9位で飯島秀雄(茨城県庁)を指名。飯島は100メートル走の日本記録保持者でもある陸上競技界の第一人者だった。代走専門として1969年から1971年の3年間プレーし、通算23盗塁を記録している。一軍で打席に立つことはなかった。

将来を担う選手を見定めるドラフト会議。アマチュア時代の実績がそのままプロでも反映されるとは限らず、プロに入ってから大輪の花を咲かせる選手も少なくない。何十年か先に振り返ると「大豊作だった」と振り返ることになるのもドラフト制度の興味深い所だ。

【関連記事】
堀内恒夫が指名された1965年第1回ドラフト会議の答え合わせ、一番出世は?
村上宗隆、清宮幸太郎がプロ入りした2017年ドラフトの答え合わせ
プロ野球のドラフト指名を拒否した選手たち、「運命の1日」悲喜こもごものドラマ