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江川選手、小池選手、福留選手…ドラフトにおける入団拒否を振り返る

2017 8/3 12:07cut
野球ボール
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福留選手は高校生以上最多の7球団競合!

1995年のドラフト会議において、高校生では史上最多となる7球団競合となったPL学園高の福留孝介選手。従来までは高校の先輩にも当たる清原和博選手(元オリックス)の6球団競合が最高記録だった。この記録を10年越しで塗り替えたが、当たりくじを引いたのは希望球団ではなかった近鉄だった。
就任した直後だった佐々木恭介監督が「よっしゃー」と叫ぶほどの喜びをみせたが、福留選手は社会人野球の日本生命へと進むことになる。ドラフト前から福留選手は中日、巨人を希望しており、その2球団以外なら社会人入りを表明していた言葉通りだった。
高卒社会人となった福留選手は、3年後の1998年に中日を逆指名し3年越しで夢を叶える。中日では福留選手の在籍期間中に佐々木元近鉄監督が打撃コーチとして入閣。近鉄ではなく中日で同じユニフォームを着ることになった。その後、FA制度を用いてメジャーリーグへ移籍、日本に再び戻ってきてからも阪神タイガースの主将になるなど活躍し、2017年現在も現役でプレーしている。
指名数が最多記録となっている小池選手(大学)、福留選手(高校)と多数の球団が狙う超大物選手は希望も強く、指名拒否に繋がりやすかったのかもしれない。

江川選手と巨人による「空白の一日」

ドラフトにおける入団拒否で最も話題となったのは江川卓選手(元巨人)だろう。「怪物」と称され作新学院高で豪腕ぶりを発揮していた江川選手。高校3年時の1973年に阪急ブレーブスから1位指名を受けている。この際は、進学希望があったことから入団拒否し法政大学へと進学をする。
法大時代には東京六大学で47勝を挙げる活躍を見せ、1977年に2度目のドラフト会議へと臨む。江川選手はクラウンライターライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)から1位指名を受けたものの入団を拒否。社会人野球には進まず、アメリカへ留学をすることになった。これは、大卒選手が社会人野球へと進むと、2年間ドラフトで指名することができなくなるためである。
江川選手は、翌1978年のドラフト会議が行われる2日前の11月20日に緊急帰国し翌21日に巨人と契約を果たす。これは1978年当時の規約ではドラフト交渉権があるのは、翌年のドラフト前々日までとなっていたからだ。前々日までは交渉できないが、前日なら交渉が可能という解釈をした巨人が電撃契約を果たしたのだ。
しかし、これはセントラルリーグ事務局が認めず契約は無効とされた。これにより翌日のドラフト会議を巨人はボイコット。江川選手は阪神、ロッテ、南海、近鉄の4球団が指名し抽選の結果阪神が交渉権を獲得した。
ボイコットした巨人は「12球団が揃っていないドラフトは無効」とし大きな騒動となった。その後、金子鋭コミッショナーの「強い要望」により江川選手は阪神に入団後トレードという形で巨人への入団する運びとなる。
巨人から阪神に移籍したのは、3年連続で二ケタ勝利をマークしていた小林繁選手だったということも大きな衝撃を与えている。プロで投げていない選手に対しエース級の選手を放出したのだ。小林選手は阪神へ移籍した初年度に22勝(9敗)で最多勝のタイトルを獲得し意地を見せ「悲劇のヒーロー」扱いとなった。
この一連のできごとから江川選手には「ヒール」のイメージがつきまとっている。

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