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時代を彩ったライバル選手たち【セ・リーグ編】(2)

2017 7/10 10:25cut
バッター
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Photo by Andrey Yurlov/Shutterstock.com

ライバル対決というと投手対打者の構図が思い浮かぶかもしれない。 しかし、打者対打者のライバル対決もあるのだ。 今回は白熱したタイトル争いを見せてくれた、松井秀喜選手とロベルト・ペタジーニ選手の対決を紹介する。

「ゴジラ」こと松井秀喜選手

松井選手は、星稜高校時代に夏の甲子園で5打席連続敬遠で社会的現象となり、ドラフト会議では長嶋茂雄監督が抽選を引き当てて満面の笑みでサムアップを披露するなど、周りで騒がれる選手だった。
巨人に入団後は2年目からレギュラーに定着し、6年目となる1998年に本塁打王と打点王を獲得するなど、球界の中心選手になっていた。日本球界にはライバルがいないのではないかとも思える驚異的な打撃能力で、ファンを魅了していたのだ。

日本最盛期の松井選手と互角だった男・ペタジーニ選手

ペタジーニ選手は1999年にヤクルトに入団し、主砲として初年度から活躍する。豪快なスイングから繰り出される一発は多くのファンを虜にし、打率.325、44本塁打、112打点と優良助っ人ぶりを発揮する。
その後、ヤクルトでは2002年までプレーし、成績だけでなく、毎年130試合以上に出場する頑丈さを売りにしており、セ・リーグの他のチームからは脅威とされていた。
2001年には本塁打王、打点王を獲得して日本一に貢献している。この当時からヤクルトの外国人は”あたり”が多いと言われるようになった。

激しいタイトル争い

ペタジーニ選手が来日した1999年から松井選手が海を渡る2002年まで、2人は激しいタイトル争いを繰り広げる。
1999年にペタジーニ選手が本塁打王と最高出塁率を獲得。すると2000年に松井秀喜選手が本塁打王、打点王、最高出塁率を獲得。2001年はペタジーニ選手が本塁打王、打点王、最高出塁率を獲得。2002年は松井秀喜選手が本塁打王、打点王、最高出塁率を獲得。
以上のように、4年間で1999年の打点王を除き、2人で本塁打王、打点王、最高出塁率を独占したのだ。

上原浩治選手の涙

1998年のドラフトで巨人に入団した上原浩治選手は、開幕から新人とは思えない投球を見せ、9月終了時点で19勝4敗の成績を残していた。最終登板の相手はペタジーニ選手のいるヤクルト戦だ。この日まで松井選手が41本塁打、ペタジーニ選手は42本塁打と本塁打王のタイトル争いが繰り広げられていた。
その試合の中で、上原選手はベンチの指示もあり、ペタジーニ選手を敬遠したのだ。立ち上がっての敬遠ではなく座っての四球だったが、誰の目にも明らかにわかる敬遠だった。その敬遠の4球目を投げた後、マウンドを蹴り上げベンチに戻った後にも号泣。松井選手とペタジーニ選手のライバル対決の裏には上原選手の涙もあったのだ。

松井選手の穴をペタジーニ選手で埋める

松井選手は2002年シーズン終了後にFA権を行使して、ニューヨーク・ヤンキースへと移籍する。巨人はこの大きな穴を、なんとライバル球団の主砲でもあり、松井選手のライバルでもあったペタジーニ選手で埋めたのだ。
ヤクルトでの4年間で打率.321、160本塁打、429打点の成績を残したペタジーニ選手は、年俸が高額となり、ヤクルトが手放さなければならない状態になったことで、巨人フロントは即座に動いて入団にこぎつけたのだ。
巨人では慣れない外野の守備を任されることもあったが、2年間通算で打率.305、63本塁打、165打点の成績を残し、見事に松井選手の穴を埋めることに成功した。

まとめ

1990年代後半に最強打者として君臨していた、松井選手と互角に争っていたペタジーニ選手を獲得する、巨人の大型補強には驚かされる。 これも、巨人がペタジーニ選手を認めていたからにほかならない。 今後もこういった白熱したライバル対決を見せてもらいたいものだ。