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球界に中継ぎ革命をもたらした!江夏豊選手【球史に名を残した偉人達】

2017 6/30 12:56cut
グローブとボール
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江夏豊選手とは

江夏豊選手は大阪学院大学高校時代に甲子園出場経験がなかったものの、プロのスカウトから注目を浴びていた。それは第2回にあたる1966年のドラフトで読売ジャイアンツ、阪神タイガース、東映フライヤーズ、阪急ブレーブスの4球団から1位指名されたことからもよくわかる。
抽選の末に阪神への入団が決まった江夏選手。当時はドラフト指名を受けても入団拒否をする選手が多い中で江夏選手は入団に至っている。阪神に同期で指名された10人の選手で入団に至ったのは、江夏選手含めてわずか4名だった。
阪神入団後1年目から江夏選手は12勝、225奪三振を挙げる活躍を見せ、2年目にはプロ野球記録となる401奪三振を記録。阪神、南海ホークス、広島カープ、日本ハムファイターズ、西武ライオンズと5球団を渡り歩き、206勝158敗193セーブをマークし名球会入りの資格を手にしている。
これだけの記録を残しているものの、最終所属となった1984年の西武では引退式の場が与えられず、名球会の協力があり引退式を多摩一本杉球場で行った。
その後、メジャーリーグ挑戦を目指したが夢は叶わずそのまま引退となっている。

1年目に12勝・225奪三振をマークするも新人王にはなれず

現役時代に多くの記録を打ち立てた江夏選手。その1つに高卒1年目で達成した12勝、225奪三振が挙げられる。セ・リーグでは2013年に藤浪晋太郎選手が10勝6敗、126奪三振、防御率2.75の記録を達成した。このセ・リーグにおける高卒1年目での二桁勝利は1967年の江夏選手以来と報道も多くされていたこともあり、ご存じの方も多いだろう。
入団1年目の江夏選手は開幕6戦目となる大洋ホエールズ戦でデビューを飾る。初登板初勝利を目指したものの、初回に4点を失うなど2回で降板。初登板の江夏選手は2回4失点(自責3)、被安打4とプロの洗礼を浴び敗戦投手となってしまう。初勝利を挙げたのは3試合目の先発となった4月29日の広島カープ戦だった。江夏選手は広島打線を9回1失点(自責1)、被安打2、与四球2、奪三振10で封じ込め初勝利を完投勝利で飾っている。
その後は、先発ローテーションを任されオールスターまでに7勝を挙げる活躍。当然のようにオールスターへと選出されている。後半戦も登板数を増やし最終的に12勝13敗、230.1回、奪三振225、防御率2.74と高卒新人1年目にしては期待以上の成績を残した。225奪三振は高卒1年目としては2016年終了時点でも破られていない記録である。しかし、社会人出身の武上四郎選手(サンケイアトムズ※現東京ヤクルトスワローズ)が打率.299、3本塁打、27打点の成績に加え、リーグ1位の守備率を誇り新人王を獲得。江夏選手は新人王受賞とならなかった。

奪三振記録を達成するも阪神から南海へトレード

阪神に入団し1年目から好成績を残した江夏選手は2年目のシーズンにシーズン最多奪三振記録を樹立した。当時、日本最高記録は1963年に達成された稲尾和久選手の353奪三振。この記録を高卒2年目の江夏選手が更新し最終的に401奪三振をマークしたのだ。
2016年終了現在でもこの記録は破られておらず、50年以上も日本記録として残っていることになる。この江夏選手以降に300奪三振以上をマークしたのは、1970年の江夏選手自身(340奪三振)となっており、事実上更新は不可能と言えそうだ。
このような活躍を見せた江夏選手は1975年オフに南海ホークスへと移籍となる。1973年に24勝を挙げ最多勝となったものの1974年、1975年と12勝にとどまり投球回数、奪三振も減少していたことが一つの要因だ。これは江夏選手の持病である血行障害などに起因している。
阪神から南海へ移籍する際のトレード相手は下記のようになっている。
阪神→南海:江夏選手、望月充選手 南海→阪神:江本孟紀選手、長谷川勉選手、池内豊選手、島野育夫選手
2人対4人の大型トレードではあったが、江夏選手と江本選手を中心とした形となっている。

「球界に革命を」南海で中継ぎへ配置転換

江夏選手は移籍した南海において、野村克也選手兼任監督とのコンビで球界に「革命」をもたらしている。1970年代のプロ野球は2010年代の現在とは違い、先発投手が完投するのが当たり前の時代であり、中継ぎ投手の価値は見いだされていなかった。そのために、投手の多くは先発を希望し、中継ぎを受け入れなかったのだ。江夏選手もその一人だったのである。
しかし、野村兼任監督は江夏選手の健康状態を考えると先発として長いイニングを投げるのではなく、中継ぎとして短いイニングの邦画力を発揮できると判断。江夏選手に中継ぎ転向を打診していた。江夏選手は先発から中継ぎへの転向を拒否していたものの、野村兼任監督の説得、そして「球界に革命を起こそう」という口説き文句でようやく承認。
移籍2年目の1977年は41試合登板中38試合に中継ぎとして登板し19セーブをマーク。最優秀救援投手のタイトルを獲得している。江夏選手にとって2年間しか在籍していない南海ではあるが大きな転機となったチームでもある。

野村監督と共にチームを去り広島へ

1977年に最優秀救援投手のタイトルを獲得したものの、野村監督の移籍にともない自身もトレードを希望し、広島カープへと移籍することになった江夏選手。阪神時代同様に中継ぎとしてチームに貢献。移籍後2年目の1979年、1980年と2年連続で最優秀救援投手のタイトルを獲得しリーグ優勝に貢献。山本浩二選手、衣笠祥雄選手らのレジェンドと共に「赤ヘル旋風」を巻き起こしている。
特に1979年は中継ぎ投手として史上初のMVPを獲得するなど文字通り「革命」をもたらした。また、その年の日本シリーズでは球史に残る「江夏の21球」を経て日本一を達成した。
1980年に連覇を達した後に江夏選手は日本ハムファイターズへと移籍。再びパリーグへ戻り、2年連続で最優秀救援投手のタイトルを獲得するなど健在ぶりを見せた。3年間日本ハムでプレー後に西武ライオンズへ移籍し、1年間プレーしたがここでは衰えも見られ1年で退団。
通算206勝158敗193セーブ、防御率2.49の成績はまさにレジェンドにふさわしく球史に残る選手といっても差し支えないだろう。先発、中継ぎとして活躍した第一人者の江夏選手は球界に大きな影響を与えており、現在の中継ぎ地位向上に一躍を買ったのだ。
江夏選手が中継ぎ転向を承認していなければ、今のプロ野球界は大きく変わっていたかもしれない。