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1995年のボビー・バレンタイン監督【球史に名を残した偉人達】

2017 6/28 09:44cut
野球ボール,ⒸShutterstock.com
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1995年にロッテ監督へ就任

1995年に千葉ロッテマリーンズは広岡達朗氏をGM(ゼネラルマネージャー)として起用し新たな球団の作り方を模索する。2017年現在は当たり前となりつつあるGMだが、初めて肩書きとして名乗ったのが広岡氏だったのだ。それ以前も「球界の寝業師」と言われていた根本陸夫氏がGMと同じような動きをしていたが、肩書きは「球団代表」でありGMではなかった。
その広岡GMは監督にメジャーリーグのテキサス・レンジャーズで監督経験もあったボビー・バレンタイン氏を招聘する。バレンタイン監督は1985年から1992年の8シーズンに渡りレンジャーズで監督を務め581勝605敗、勝率.490の成績を残していた。
シーズン開幕前からアメリカ流の手腕が期待され実際に今までの「日本式」にとらわれない采配、チーム運営を行った。しかし、フロントとの軋轢も生じてしまったために1年限りでの解任となってしまったのだ。

1995年当時のロッテ

1995年にバレンタイン監督が就任する以前のロッテは最下位争いが常連となっており、1985年に2位となって以降、1986年からはBクラスが続いていた。1987年から1994年までの8年間は5位、6位が指定席だったのだ。
そのため、フロントは日本プロ野球史上で初めてGM制を敷き、チームの改革に期待をかけたのだ。その改革を現場で行う者としてバレンタイン監督は大いに期待されていた。
その成果もあり、チームは序盤こそ下位に低迷したモノの夏場以降に調子を上げ上位争いを演じる。最終的には阪神淡路大震災からの復興を目指し「がんばろうKOBE」の合い言葉を胸にイチロー選手らを中心としたオリックス・ブルーウェーブに優勝を奪われてしまうが、1985年以来10年ぶりとなる貯金、そして2位とAクラスに輝いたのだ。
当時の中心選手であった小宮山悟選手はこの年のバレンタイン監督との出会いが運命を変えたといってもいいほどだろう。後にメジャーリーグ挑戦時もバレンタイン監督を慕っている。また、バレンタイン監督も小宮山選手のことを高く評価していた。

監督とGMの間で起きた確執

1995年シーズンにバレンタイン監督は10年ぶりのAクラスとなる2位を確保。チームとして大きな躍進を果たしたが、このシーズン限りで解任されてしまう。それは、広岡GMとの確執があったからに他ならない。
理由の一つにはバレンタイン監督の「メジャー式」とも取れる休養を入れながらの練習方法と「日本式」の特守、特打といった練習を巡っての対立もあった。
当時ロッテのコーチであった数名はバレンタイン監督のやり方について行けず辞任を申し出ている。これに対し広岡GMは球団オーナーに指示を仰ぎコーチではなく、バレンタイン監督を解任する方針をとったのだ。アメリカではGMが監督を首にすることもよくあるが、日本ではGM制度が根付いていなかったこともあり、広岡GMは監督を首にする権限は与えられていなかった。そのためにオーナーに判断を仰ぐ必要があったのだ。
後にバレンタイン監督は「広岡GMは選手を集めてくることが仕事なのにそれをせず、現場へ口出しばかりしていた」と広岡GMを非難。一方で広岡GMは「バレンタイン監督は現場で汗まみれになりながら選手を指導し勝利に導くのが仕事なのにそれをしなかった」と話している。
どちらが正しいのかはわからない部分もあるが、埋めることのできない溝があったのは確かだ。

シーズン中の出来事も……

結果的に1995年シーズンオフに解任となってしまうバレンタイン監督だが、その伏線は様々だ。バレンタイン監督は選手のモチベーションを上げ、楽しく野球をさせるスタイルを用いてチームを勝利に導いていこうと考えていた。一方で、広岡GMは西武ライオンズ時代に培った管理野球をロッテで実践しようと考えていたのだ。この野球観の相違が後の軋轢の原因となっていまいる。
野球観はどちらが「良い」、「悪い」というものではないが、フロントと現場を預かる監督の方向性が一致していないとチームはうまくいかない。
この年、キャンプでバレンタイン監督は日本では当たり前となっていた猛練習を課すことなく、疲労の残らない形で実施する。広岡GMはキャンプでの猛練習を課さなかったことで不安を覚えたのだ。そして、シーズン開幕から8勝14敗1分と最下位で4月を終えたところで広岡GMは、バレンタイン監督へテコ入れのために練習の増加などの進言を行う。
この際、バレンタイン監督は「2ヶ月待って欲しい」と懇願し猶予期間をもらった。これはチームを率いて初年度と言うことで戦力、選手、コーチの個性を把握し切れていないとの理由からだ。バレンタイン監督の言葉通り5月からチーム状態は上向く。6月終了時点では3位、8月終了時には2位へと順位を上げバレンタイン監督は結果を残したのだ。
しかし、広岡GMはこの結果によしとせず契約期間が残っていたにもかかわらず、バレンタイン監督を解任。シーズン中の現場への進言が受け入れられなかったことが大きな理由と言われている。

バレンタイン監督退任後

バレンタイン監督は1995年シーズン終了時に解任となり翌1996年からは江尻亮監督が誕生する。しかし、チームは前年のような勢いを持っておらず、60勝67敗の成績で再び借金生活となりBクラスに沈んでしまう。この年限りで広岡GMも3年契約の2年目ではあったものの解任されている。ロッテが次にAクラス入りを果たすのは皮肉にもバレンタイン監督が2度目に就任した翌年の2005年だった。
1996年アメリカに戻ったバレンタイン監督はニューヨーク・メッツ傘下のAAAであるノーフォーク・タイズの監督に就任した。シーズン途中にはMLBのメッツ監督に昇格し31試合で12勝19敗の成績を残している。その後、2002年までメッツの監督を務め最後のシーズンを除き勝率5割を超える成績を残した。
これらの実績を持って2004年に再びバレンタイン監督はロッテの監督へ復帰するのだ。このときは広岡GMもおらず6年間の長期政権を築いた。
監督は自身の実績だけでなくフロントとの野球観の共有、目指すべきモノのすりあわせが必要だと言うことを改めて教えてくれたのが、バレンタイン監督といえるだろう。