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中日ドラゴンズの歴代監督がチームに残したモノ

2016 8/13 15:01
イメージ画像,ⒸTK Kurikawa/Shutterstock.com
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ⒸTK Kurikawa/Shutterstock.com

落合博満

2004年から2011年の8シーズン、中日ドラゴンズの監督を務めた落合博満。リーグ優勝を4回、日本一を1回達成しており、チーム史上きっての名将と言える。選手時代の成績もすばらしく、特に印象に残っているのは82年に史上最年少で獲得した三冠王だ。

頭脳派で技巧派野球を好む落合ならミーティングに力を入れそうだが、実際はシーズン開幕の最初の一回を除いて全くミーティングは行わず、重視したのは「走る・打つ・投げる・捕る」という野球の基本動作だった。キャンプでかなり厳しい練習量を課したことで有名だが、この反復によって実績が残せたのだ。

山田久志

シーズン途中で解雇されてしまったため、山田久志が監督を務めたのは2年にも満たなかった。だが、今でもファンの間では名将とされ、福留孝介を育てあげたことは語り草となっている。

当時、福留が抱えていた問題は長年守備ポジションが固定されないことだった。そこを山田が外野手として固定。ここから福留の大躍進が始まった。

他にも、「アライバ」の愛称で親しまれた荒木雅博と井端弘和、後に中日躍進の原動力となった鉄壁の投手陣などの構築を行い、なかなか日の目を見なかった選手を辛抱強く使い名選手へと育てあげた。

星野仙一

成績が低迷しきっていた阪神や楽天の再生を任され、見事にリーグ優勝を成し遂げた星野仙一。そのため近年では楽天や阪神のイメージが強いかもしれないが、星野は2度にわたって中日の監督を務めている。

星野が率いたチームは徹底的な意識改革を促され、戦う集団へと変貌する。中日在籍当時に成績不振でクビ候補の筆頭だった中村武志も星野が厳しく育て上げ、見事正捕手のポジションを獲得した。

また、常にファンをどう盛り上げるかについても考えており、そのための根回しもする。事実、試合中に審判へ抗議する場合、(毎回ではないが)事前に審判に断りを入れる話は有名だ。監督の隠れた優しさや気遣いが見えるからこそ、厳しいながらも選手は星野についていき成果を上げることができたのだろう。